告訴の事実
市場急配センターについて
平成4年4月1日、告訴人である私は同じ市場急配センターの事務員である安藤文に対する傷害事件を起こし、金沢西警察署に出頭、その後金沢地方裁判所において懲役4年の実刑判決を受け、平成9年1月18日まで福井刑務所に服役しました。この外形的な事実に関して争いの余地はありませんが、事件に至った過程において被告訴人らの不法な侵害行為が介在しており、また、そのような犯罪行為がなければ、決して起こることのなかった事件と考えます。
私と安藤文さんの個人的な関係は、前年つまり平成3年の9月頃から始まりましたが、雰囲気的に恋愛感情を意識するようになったのは同じく8月頃からのことです。
9月の10日頃になると、彼女の方から会社前の駐車場で車のフィルム貼りを手伝ってくれたり、積極的に話しかけたりしてくれるようになりましたが、私とすればまさかという気持ちが強く、半信半疑の状態が続きました。それでも繰り返された彼女からの積極的なアプローチに、真摯な交際の気持ちを抱いてくれているものと考えるようになり、また、彼女の言動は市場急配センターの会社内でのことだったので、周囲の誤解も避けたいと考え、さらに、彼女の積極的な行動にも応えたいと思い、10月5日の夜、電話で自分の方から交際の申し込みをしました。
結果として、彼女には、好きな人がいるので交際できないと断られたのですが、言葉とは裏腹に会社内での彼女の態度は以前と変わりなく、いっそう明確な意思表示で、好意的なものになりました。
それまでは自分の方が半信半疑で煮えきらない態度で接し、彼女を傷つけ、会社内において涙顔を見せることもあったので、当てつけでじらされているのかと考えることもありましたが、初めに交際を断られた時の衝撃が大きく、不可解な不信感も根強く抱くようになったのです。
10月から11月中に掛け、5,6回ほど彼女の自宅に電話を掛け、話しをしましたが、会話が2時間以上に及ぶこともあり、いつも彼女の方から、「今日どこも走らんかったん?」という切り出しで、和らいだ雰囲気を作ってくれ、快く会話に応じてくれていました。電話を掛けるきっかけは、会社内で彼女の行動に触発されたものがほとんどでした。
そして11月25日の夜の電話で、自宅に電話を掛けることの承諾を得たものの、電話には出なくなり、会社において自分の軽四を会社裏のトラックや、トラック運転手専用の駐車場に停めるようになり、今度は直接私の方から声を掛ける機会を作ってくれるようになりました。
その裏駐車場での駐車が始まったのは11月の終わり頃でしたが、まず初めには彼女だけでなく横に並んで同じ事務員の被告訴人池田宏美の車も、駐車場の一番奥に停められていました。
被告訴人松平日出男は、9月10日頃に彼女がフィルム貼りを手伝ってくれている状況も目撃しており、その時はずいぶん驚いたような顔をしていました。
池田宏美も安藤文さんが私に対して、好意的で交際を意識していることは十分に認識していたはずです。安藤文さんが、私に「どっか行くが? 送っていってあげるか?」と声を掛けたとき、二階に窓から顔を出し、「乗ったらダメよ! 広野さん、どっか行くんやったら私の車、使いなさい!」と自分の車の鍵を大慌てで投げつけようとしたり、松平日出男が買ってきたケーキを、安藤文さんに、「このケーキ、広野さんが文ちゃんのために買ってきてくれてんよ。」と話しかけることがありました。
安藤文さん本人でなければわからないかもしれませんが、そのような安藤文さんの会社における言動、態度は池田宏美らの介入によるもので、具体的な指示を受けていたものと考えるのが自然です。
そのように安藤文さんの真意を十分に認識していながら、彼女を操作し利用するかたちで、私が一方的に彼女に恋愛感情を抱き、しつこく交際を迫っているかのような外形的な状況を積み重ねて作り上げていきました。
そのあたりの事情は、いわば集大成というかたちで、池田宏美、梅野博之、松平日出男、安田敏、安田繁克、浜口卓也、多田敏明らの金沢西警察署で作成された供述調書の内容に現れているところです。
そこで今回は、手短になりますが、被告訴人ら一人一人に焦点を当てて犯罪行為の関与に言及しておきたいと思います。
池田宏美について
まず、もっとも不自然で怪しい点は、平成3年6月頃、私が市場急配センターの同列会社である金沢市場輸送を辞め、市場急配センターで仕事をするようになった直後から、それまで毎日金沢市場輸送の事務所で仕事をしていた池田宏美が、市場急配センターの事務所で一日中仕事をするようになったことです。全体的な計画性の推進役として送り込まれた可能性が高く、主に安藤文さんに対して反応を窺い、情報を聞き出しながら、働き掛けを行っていたものです。
平成4年3月の初め頃には、私に対して、「あの娘(安藤文)のためやとか、そういうこと一切考えんときなさい、あの娘にはあの娘の生き方があるんやし。今、あの娘に会社辞められたら、本当に困るげんてぇ」と言ったことがあり、同じく1月の終わり頃には、「なんにもわかっとらんげん、可哀想な子や、可哀想な子やと思っときなさい。」と言ったことがあり、「あの娘、会社でしおらしい顔しとるけど、電話で友達との話聞いとったら、がんこなこと言うとるわ。」などと、彼女の不可解さや、問題性を強く印象づける言葉が散見しました。
同時に、松平日出男がうどんの出前を取り、私と安藤文さんに食事を振る舞う場には、決まって姿があり、温かく協力的な素振りも垣間見せていました。
梅野博之について
この男は、金沢西警察署で作成した供述調書において、もっとも分量の多い具体的な供述をしておりますが、私の側から見た視点ではもっとも目立たないような存在でありました。
ただ、平成4年の2月の初め頃、安藤文さんが会社の裏駐車場での駐車をやめた直後から、会社での電話の応対に積極的に出るようになり、同じく3月の10日頃に事務所の机の配置が変更されると、出入り口正面の机に座り、お目付役のような役割をしていました。
梅野博之が出た電話で印象に残っているのは、平成4年1月21日の夕方、2月4日の福岡県福岡市須崎埠頭からの電話、それと2月19日の愛媛県新居浜市あたりから掛けた電話でした。
また、3月19日頃、私が五高倉庫で静岡県清水市行きのミールを積み込んだあと、早々に退社をして夕方5時前に自宅アパートから掛けた電話では、松平日出男、池田宏美と持ち回りで、電話に出ていましたが、この時は、うれしそうな明るい態度でした。私は安藤文さんが出ないとその都度、無言で電話を切っていたのですが、この日、どうしても彼女に話しがしたいと繰り返し電話を掛けたのは、荷物の積み込みに行く前、会社事務所で、安藤文さんが指輪を見せびらかすようなことをやっていたからです。
彼女が、指輪を見せたのは、その時が2回目で前回とは形状の異なるものでしたが、その前回というのは3月の5日頃のことで、梅野博之は安藤文さんに、「(給料を)間違って、彼氏のとこ振り込むな」などという意味深な言葉をわざとらしく投げかけていました。
他に印象に残っているのは、平成3年12月13日の夕方、裏駐車場の彼女の軽四のとなりに自分の軽四を停め、彼女に声を掛けようと待っていたとき、梅野博之が横を通り過ぎて、事務所に向かって歩いていったときのことです。
いつもは、遅くても17時半頃には退社する彼女が、その時は18時近くになっても姿を見せず、私がいる間来る気はないものと考え、18時前には諦めて帰りました。
安田敏について
安田敏に安藤文さんのことを相談したのは、平成3年9月の終わり頃だったと思います。諦めろとか思い込みという否定的な説得を繰り返していましたが、時折、理解を示し期待を持たせるような態度をとることもありました。
安田敏はその年6月頃に、私の紹介で金沢市場輸送に入社し、その直後から市場急配センターで仕事をしていました。作為あるいは意図的と思われるようなトラックの物損事故を繰り返したり、問題のある行動や発言も同様に繰り返していました。まず金沢市場輸送の入社に際して、50万円の前借りをし、私がその保証人になったのですが、実際に給料引きの支払いを始めたのは早くてその年の12月からで、あるいは翌年の1月からです。口ではお金に困っているようなことも説明してはいましたが、具体性もなければ、切迫感もまったくありませんでした。
前借りの件も含め、これも池田同様、計画実施の初期の段階で送り込まれた実行役の可能性が高いところです。
平成4年の3月の初め頃になると、150万円ほどの車を新車で購入していました。2月14日には25万円か20万円を私に立て替え払いさせるような不義理をして、挑発的だったのに、その頃になると、媚びて哀願するような態度で接触をするようになり、外形的に私の非常さや短気さを周囲に印象づけていたようです。
事務所の階段付近まで追いかけて、ベルトを手渡そうとしたことがありましたが、私が応じないで立ち去ると、安田敏は振り向きざまに悪魔のような自虐的な笑い顔を見せていました。なにかゲーム感覚で、自らの演技に酔いしれていたという印象があります。
これはちょうど、事務所の机の配置換えが行われた頃でしたが、安藤文さんの方の、私に対してそれまで若干媚びるような態度だったのが、すねた子どものような態度に変わり、私が二階の事務所にいると、一階の運転手の休憩室に行って仕事をし、私が休憩室にはいると二階に上がって行くようなことを繰り返していたことがありました。
それまで事務所に台所から消えていたコーヒーメーカが現れたのも当日の朝だったと思います。また、そのコーヒーメーカが姿を消したのは、1月の10日頃、日産ディーゼルとの新車購入の打ち合わせをしていた浜口卓也が、私の背中を押して彼女のいる台所に押しやった直後でした。その直前、台所にコーヒーがあるのを見た私が、誰ともなしに、「このコーヒー飲んでいいがぁ?」と声を掛けたところ。机に座って仕事をしていた安藤文さんが、誰もが振り返るような思いを込めた大きな声で、「うん」と返事をし、すぐに仕事の手を止めて、台所に駆けつけ、洗い物を始めた直後のことでした。
彼女にしてみれば、そのような会社の人達の温情や協力を理解しない私に対し、不満やメリハリをつけた強調表示の気持ちや、目的があったものと考えられますが、そのような会社の人達の態度も、どことなく不自然で真意の測りかねるものでした。ようやくその隠された真意に触れることが出来たのは、彼らの供述調書を読んでからのことでしたが、これは平成5年の12月に入ってからのことで、自ら起こした事件の副産物のようなものでした。
安田敏が繰り返した会社内における問題性のある行動というのは、細かいといえば細かいもので、彼持ち前のパーソナリティとの識別も困難でしたが、意識的な振る舞い、つまり演技である可能性は、比較的早い段階から感じることがありましたが、目的が判然とせず、断定や確信には至りませんでした。
安田敏の供述調書を読んで感じたことは、予想外にまともなことを話している、という印象でした。予想外におかしなことを話していて、正気をも疑ったのは梅野博之の方ですが、対照的に事件前の会社での人なりは、梅野博之の方がありふれて一般的なものでした。
もっとも梅野博之の場合、うまく乗せられて利用されたような側面もあるのかもしれません。私が福井刑務所を出た後の電話でも、いいたいことがあれば、自分より先に松平日出男に言え、のようなことを絶対的な正当性のように主張していました。
安田敏も同様に、責任を問われ警察に捕まるとすれば、絶対に自分より先に松平日出男だというような言い方をしており、初めから自分は利用されただけという、気構えでいるようです。
事故というほどのものではありませんでしたが、平成3年の11月頃には、夕方に10トン車を会社近くの工事現場に突入させ、松平日出男が金沢市場輸送から応援を呼んで、別の10トン車で引っ張り出すという出来事がありました。金沢市場輸送で麻雀をしていた多数が集まり、引き上げには予想以上に手間取って時間がかかり、途中激しい夕立もあってずぶ濡れになる姿もあったと記憶しています。特に印象的だったのは、本恒夫が無言で真剣になって作業をする姿でした。
また、作業が終わった頃、いつも早い時間に仕事が終わって帰っているはずの木村という人物がワゴン車で来ていて、そのワゴン車に同乗して市場急配センターの事務所に戻りました。他にはっきり憶えている姿は東渡でしたが、全部で10人ぐらいかそれ以上に人が集まっていたと思います。
安田敏は、誰にもお礼や挨拶をすることはなく、何かを黙々と考えている様子だったのですが、市場急配センターの事務所に戻って口を開くと、「あの事務所に来とった(正確には休憩室)女の子、東渡の娘なんやてな」と言いだし、私が、「ありがとう、ぐらいいえんのか」というと、「そんな言葉、長いこと使っとらんし、忘れたな」などと軽口を叩いていました。
同じ頃、本恒夫が市場急配センターのトラック駐車場に来て、私にやや挑発的な態度で、トラックを移動させるよう命令したことがあったのですが、これは私が安藤文さんに初めて交際を断られた翌々日なので、10月7日の月曜日になると思います。
電話で交際を申し込むことは10月5日の午後に、安田敏に話しをしていました。このあたりも松平日出男かあるいは東渡の采配があったのか、5日の午後は、東渡のトラックに安田敏と3人で同乗して、河北郡(当時)高松町あたりに荷卸しに行っていたのです。
その帰りに、安田敏と二人で金沢市内諸江にあるオートバックスというカー用品の店に行ったことも憶えています。これは、安田敏のトラックに馬鈴薯を積み込んだあとのことかもしれません。
その時、安田敏は冗談ぽく、交際がダメだったら、明日名古屋に馬鈴薯を降ろしに行くのに付き合ってくれと軽く言っていました。
実際、私は翌日の朝、安田敏のトラックに同乗して、名古屋の北部市場に付き合ったのですが、名古屋から戻って駐車場にトラックを停めたのは、夕方まだ明るい頃でした。トラックを停めるまで私が一緒にいて異状はまったくなかったのです。
ところが、翌日の月曜日に会社に行くと松平日出男が私に、安田敏の乗務するトラックにぶつけた痕跡があるようなことを言い出し、話しぶりからそれは名古屋から戻ったときに間違いないような説明で、さらに安田敏に対する不信感を露骨に訴えかけるような、言い回しだったのです。
その時、私がおかしいと感じたのは、松平日出男が指摘するぶつけたというトラックの部分もはっきり確認できなかったことです。フロント部分と言いますか、前面だったと思いますが、もともと傷んでいるようなポンコツに近いトラックだったので、松平日出男が目ざとく物損を見つけたというのも、また、それに一方ならぬこだわりを見せたというの不可解なことであったのです。ちょうど、そんなときに、本恒夫が駐車場にやってきて、私に命令をしたのですが、似たような感じで本恒夫の態度にも不自然さが感じられました。
もっともその時私の頭の大部分を支配していた不可解さは、一昨日の電話で交際を断った安藤文さんのことでしたが、当日の彼女は、私に対し、申し訳なさそうな反省したような態度でしたが、目を合わせるようなことはありませんでした。
当日の松平日出男や本恒夫の態度ですが、安藤文さんに対する不信感を増幅させ、相乗効果を狙った暗示性の高い、演出だったと考えられます。詐欺の技術としても高度な部類に入り、一般には認知されることもない、といえるのかもしれません。
オートバックスに行った頃の安田敏は、うまくいくかどうかは半々だと予想を立て、明るく余裕さえ窺わせる態度で、普段以上に気分もよさそうでした。安藤文さんが、どのような対応をするかは、あらかじめ池田宏美を通じて筋書きが出来ており、それ故の余裕だったと考えられます。
ちなみに、平成4年の4月1日の事件の時は、翌日の運行予定として、引っ越しの荷物を積んで東京に行くことが決まっており、さらに多田敏明を同乗させるとも言われていました。私が乗務するのは10トンの大型トラックであり、多田敏明は大型免許を持ってはおらず、大型車の運転をしたことがあるとも聞いたことはありませんでした。これも貪欲な情報収集が目的であったと考えるのが自然です。
また、このような運行を決めるのは、配車係の仕事ですが、東渡は3月の初め頃から会社に寄りつかなくなっていて、七尾市で独立した運送の仕事をやるという話しもしていたようです。
実際は、会社に寄りつかなくなっただけでなく、情緒不安定な精神病者のような振る舞いを見せていました。時々、会社に姿を見せていましたが、長いときで2週間ぐらい空白があったようです。
確か3月の29日の日曜日の午後に、会社の前でポンコツの乗用車の洗車をしてました。休日と言うこともあり、他の社員の姿はなかったと思います。それより数時間前の午前中になると思いますが、安田敏が休憩室でシャッターが降りたまま電気もつけず、机に座って電話を掛けていました。
そのあとだったように思うのですが、誰もいない休憩室に安田敏と二人でいると、電話が鳴り、私が出ると相手が女性で、安田敏への取り次ぎをしたのですが、このあたりも腑に落ちない不自然さがあり、その女性は「カジ」と名乗っていました。
休日になぜ、自分が会社にいたのかを含め、現在ははっきり思い出せない部分があるのですが、一人で近くのジャスコ若宮店に買い物に行ったことなど今でも断片的には憶えていますし、細かいことも過去の資料には繰り返して詳しく書いてあるはずです。
また、その前の晩は、加田義満のアパートに行き、酔いつぶれて朝まで炬燵に寝ていました。起きると加田義満の姿はなく、早々に自分のアパートに帰り、それから近くのコインランドリーに洗濯に行ったような覚えがあり、会社に行ったのはそのあとだったと思います。ジャスコに何かの商品を見に行くのが目的で、そのついでに会社に寄り、ついでにトラックの洗車などもしていたような気がします。
また、4月1日の午後にも、少しだけ会社の休憩室で東渡の姿を見かけたような憶えがあります。もう既に会社をやめているような話しもあり、はっきりしたことはわからなかったのですが、東渡の近況について詳しく聞いたのは、3月に入ってから、浜上さんと富山に荷物の積み込みに行った時でした。この時は、高岡市から巻き取りのようなものを積み、関東に向かいました。
その時、浜上さんは東渡のことについて親身にかばうような説明をし、東渡の妻について「鬼のような女」と酷評していました。東渡の方が会社同様家庭でも好き放題のわがままをしているように私には思えたのですが、浜上さんは似たような寛容さで、安田敏を庇い、私に厳しすぎるような非難を暗に向けることもありました。
他に、1月の終わり頃には、清水倉庫でトラックのタイヤを二本まとめて破裂させ、ホィールもだめにしたような話しがありましたが、これもにわかには信じがたい話しで、実際に壊れたタイヤやホィールは見ておりません。清水倉庫でフォークリフトの運転をする顔見知りの国勝運送の人が、私に、「お前んとこの、あの運転手大丈夫なんか?」と信じられない光景を目撃したように話しかけて知ったのですが、会社の休憩室で安田敏に会ったときは、すでに会社に内緒で市川タイヤに行き、修理に出したか、修理をしてきたようなことを簡単に説明していました。
倉庫の敷地内にはいるのに、24トンのミールを積んで、タイヤが二本同時に爆発するような乱暴な運転をしたそうですが、その頃になると安田敏が何をしても、松平日出男が直接安田敏を咎めるようなことはないばかりか、以前のように私に苦情を言ってくるようなこともなくなっていました。
2月14日のバレンタインデーの日には、愛知県の豊橋インターで、ウィング車から白菜を50個外に散乱させたと話していましたが、これも実際には確認していない事実です。私が逮捕されたあとには、愛知県内の東名高速岡崎インター付近で、不二家のペコちゃんのお菓子を本線車道上にばらまき、警察の追跡を振り切って逃げ帰ってきたという話しも聞きました。
警察の捜査を攪乱させる目的で、呆れ果てさせるような行動を意図的にやった可能性も高いと考えられます。その後、守田水産輸送のトラックで、追突事故を起こし、前を走行していた大型トラックを崖下に転落させたとも話していましたが、このあたりの詳細な会話も録音した資料として金沢地方裁判所の再審請求に提出しました。
御庁の遠塚さんから書面以外のものは受け取れないと言われていますので、指示がない限り私の方から添付することはありませんが、関係者との会話を録音したファイルは、次のような構成のパソコンデータになっています。
│ list.txt
│
├─030118
│ ├─市場急配センター
│ │ 急配(出ない)20030118_112746.WAV
│ │ 急配(出ない)20030118_131024.WAV
│ │ 急配(出ない)20030118_134824.WAV
│ │ 急配(女事務員)20030118_113702.WAV
│ │ 急配(間違い?)20030118_113458.WAV
│ │ 松平本人20030127_144922.WAV
│ │
│ └─梅野
│ 梅野から携帯20030124_181038.WAV
│ 梅野妻20030118_131946.WAV
│ 梅野本人20030118_125446.WAV
│ 梅野(出ない?)20030118_125406.WAV
│ 梅野(初めて繋がり切る)20030118_125254.WAV
│ 梅野030126.txt
│ 梅野030128.txt
│
├─加田義満
│ 加田事務所(1)20030111_150958.WAV
│ 加田事務所(2)20030111_161656.WAV
│ 加田事務所(3)20030111_171520.WAV
│ 加田事務所(3)20030111_171520.wma
│ 加田(留守電)20030101_155406.WAV
│ 加田(間脇)20030101_161056.WAV
│ 12月22日加田宅訪問(初めての録音).WAV
│
└─安田敏
安田敏(前半)20030103_143238.mp3
安田敏(前半)20030103_143238.WAV
安田敏(後半)20030103_151942.WAV
敏20030103_140212.WAV
敏(うち)20030102_152640.WAV
敏(娘?)20030103_133814.WAV
敏(自宅初訪問)20021230_130710.WAV
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ファイル名:急配(間違い?)20030118_113458.WAV FILESIZE=867K
ファイル名:急配(出ない)20030118_112746.WAV FILESIZE=1.8M
ファイル名:急配(出ない)20030118_131024.WAV FILESIZE=5.0M
ファイル名:急配(出ない)20030118_134824.WAV FILESIZE=3.8M
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ファイル名:安田敏(後半)20030103_151942.WAV FILESIZE=209M
ファイル名:安田敏(前半)20030103_143238.WAV FILESIZE=85M
ファイル名:安田敏(前半)20030103_143238.mp3 FILESIZE=53M
ファイル名:敏20030103_140212.WAV FILESIZE=997K
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ファイル名:敏(自宅初訪問)20021230_130710.WAV FILESIZE=15M
ファイル名:敏(娘?)20030103_133814.WAV FILESIZE=2.0M
ファイル名:12月22日加田宅訪問(初めての録音).WAV FILESIZE=7.5M
ファイル名:加田(間脇)20030101_161056.WAV FILESIZE=18M
ファイル名:加田(留守電)20030101_155406.WAV FILESIZE=1.1M
ファイル名:加田事務所(1)20030111_150958.WAV FILESIZE=121M
ファイル名:加田事務所(2)20030111_161656.WAV FILESIZE=105M
ファイル名:加田事務所(3)20030111_171520.WAV FILESIZE=51M
ファイル名:加田事務所(3)20030111_171520.wma FILESIZE=39M
よく見ると、夏に安田敏との会話を録音したものはこの中には含まれていないようです。ファイルの複製は容易なので、CDを含め随所に保管してありますが、ファイル名に録音時の日付を加えてあるので、状況の流れもつかみやすいかと思います。また、ファイルサイズも書き出したので、会話の長さの目安にもなると思いますが、.WAVという音声ファイルの形式はボイスレコーダーで標準に保存される形式でデータサイズが大きくなるWindowsXPより前のWindowsパソコンで標準の規格のものです。
長い間使ったことがないのですが、以前はフリーソフトを利用して圧縮率の高い「mp3」や「wma」のファイル形式に変換することがありました。
多田敏明について
彼と個人的に親しくするようになったのは、平成3年の11月に入ってからのことです。東渡の乗務する大型トラックに同乗して茨城県古河市の青果市場に来ていたことがあり、その頃から急速によく付き合うようになりましたが、互いに自宅を訪問するようなことはなく、会社だけでの付き合いでしたが、仕事柄私生活と仕事の区別が曖昧な点もあり、会話をする時間も他の職種の仕事とは比較にならないほど長かったと思います。それは会社の側でもトラックに同乗させる機会を多く与えていたからです。
被告訴人らの計画の要とも言える安田繁克に関する情報も彼からもたらされたものが大半でした。また、会話を通じて私の側から運び出す情報も多かったはずです。
もともと性格的に虚言癖や屈折した心理傾向があるように窺えましたが、リーダーシップを発揮するような一面もあり、社交的で話しの運びもうまく、交際範囲も広いような様子でした。
また、彼に安藤文さんのことを話し、相談するようになったのは12月の10日過ぎぐらいからのことでした。
安田繁克について
私が市場急配センターで仕事をするようになった直後から、自ら私に対して接触を図ることがあり、梅野博之同様表面的には好意的でした。安藤文さんと交際していたことがあると初めて聞かされたのは平成4年1月21日の夜、浜口卓也がその口火を切りました。
その後、多田敏明の方で隠していた事実を告白するようにいろいろと吹き込んできましたが、多田敏明の方では深い関係を否定し、概ね多田敏明自身が供述調書に供述しているような曖昧な説明をしていましたが、時折、迫真の真実を語るようなことがあり、私に対して、安田繁克と安藤文さんの間にただならぬ男女関係のもつれのあったことを具体的且つ明確に印象づけていました。
安田繁克自身が、その疑惑を裏付けるような素振りを見せていましたが、作為的な作り話であったことの一端は、安田繁克自身の供述において、平成4年2月1日の夜、自ら接触を図りながら、私の方から追求を受けたようなすり替えを行っている一事に顕著に現れており、計画性は明確だったと言えます。
また、直前に、人気のない市場急配センターの裏駐車場を乗用車で通過しながら、その場にいた東渡や浜上さんが、まったく不審な素振りも見せず、無言のまま車の通過を目で追うこともしなかったのは、安田繁克が私に接触を図る事情を熟知していたものとしか考えられないことで、連帯的な共謀関係の繋がりが認められるところです。
浜口卓也について
先にも述べたとおり、日産ディーゼルの打ち合わせがあった時点で、安藤文さんと私が恋愛関係にあり、また安藤文さんの真意も十分に認識していたはずですが、それより前の、平成3年12月21日の夜の時点で、そんなことはよくわかっているような様子でした。その夜、私は安藤文さんの目の前でトラックから投げ捨てたクリスマスプレゼントを拾いに行き、そのまま浜口卓也の自宅アパートを訪問しました。
そのあと彼に誘われて金沢の繁華街、片町に飲みに行ったのですが、本当の私の目的は理解しがたい安藤文さんの人柄や性格について相談することでした。結局、その場では切り出せなかったのですが、私の胸の内も手に取るようにわかっているような様子でした。
その数日前の午前中、事務所において東渡が文さんの隣の梅野博之の机に座り、私に24日のクリスマスには、東京に行くように指示を出したのですが、その言葉を聞いた彼女が隣で大きくがっくりと首をうなだれるということがありました。
また、これもその数日前、安田敏から聞いた話しでは、安藤文さんが好きな人にプレゼントをするため、金沢市場輸送の女子事務員に手編みの編み物を習いに行っていたそうです。
1月に入ってから、私は彼女の車の後部席だったと思いますが、紙袋に入った手編みのセーターらしきものをちらりと見ることがありました。その記憶からさかのぼると、一般的にクリスマスプレゼントとして手渡すことを予定していたと考えられます。
安田敏は、その話をしたときもあっけらかんとした態度で、彼女が好きだという人物について言及するようなことはなく、その話だけをいわば事務的に私に伝えていました。
金沢市場輸送には20代後半の女子事務員が二人いて、私も以前話しをすることがあり、10月の後半から11月の前半だったと思いますが、金沢市場輸送に給油に行ったとき、珍しく外にいたその二人の女子事務員にトラックに乗せて欲しいと頼まれ、その場で断ったことがありました。
ちなみに12月から1月になると、金沢市場輸送に給油に行くことはほとんどなくなっていましたので、その二人の女子事務員と会うこともなかったと思います。一人は谷口という名前ではなかったかと思います。金沢市場輸送にいるときは、たまに話しをすることがあり、割と気安く喋りやすい間柄でした。
私の方から相談を切り出したとき、浜口卓也は、安藤文さんが安田繁克と付き合っていたとき毎日弁当を作ってきていたと言い、その点は見上げたものだとずいぶん高く評価していましたが、開口一番は、「鬼のような女やな、お前、あの女の顔見て普通の女じゃないってが、わからんか? きっかん顔しとるやろい」と決めつけたように切り出しました。
その弁当の件は、梅野博之も供述しており供述調書に記載してありますが、事実であったのかはまったく不明であり、浜口卓也自身も供述調書では、歯切れの悪い曖昧な言い方をしているという印象がありますし、恋愛観に関しては私自身の考えとまったく異なるものを実際に存在しない会話として供述しています。
安藤文さんと安田繁克の交際ですが、安藤文さんの両親の供述調書を見る限り、彼女が男性と交際していたことはなく、自宅に電話をしていたのも私だけだったようです。
多田敏明の話しによると、安田繁克は安藤文さんにいい服を着て来て欲しいと言われて、自宅に招かれ、父親と酒を飲んだが、堅苦しくまずい酒だったということです。さらに、安藤文さんは安田繁克に対して強い恨みを抱いているとも断言していました。
二人の交際が事実だったとすれば、同じ会社の社員であることも安藤文さんの両親は知っていたことになりそうですが、会社においてそのような恋愛のトラブルが過去にあったとすれば、より注意深く神経質になっていたはずです。
ところが、私は平成3年の11月の終わり頃から平成4年の1月の上旬にかけて、かなりの数の電話を彼女の自宅に掛けており、そのほとんどは母親が対応していました。その期間、例外と言えば、兄貴が一度出ただけでした。
メモなどで記録はしていないので、正確な数はわかりませんが、電話を掛ける日は、決まって3回ぐらい続けて掛けていました。19時か19時半頃に掛け、それからだいたい30分おきに、20時半頃まで掛けていたからです。
金沢西警察署の供述では50回ぐらい掛けたと言ったような憶えがありますが、連日掛けていたということもなく、数日の間をおくこともあったので、それほど多くはなかったのかもしれません。
その頃の母親は、明るく少しすまなそうな声で、「ちょっと出掛けているんですけど」と言っていました。初めて自宅に電話を掛けた10月12日の夜は、23時頃の非常識な時間帯でしたが、意外な様子もなく、あっさりと彼女に取り次いでくれました。
良く考えれば、それまで男のことで問題を起こしたことは一度もなく、娘を信用しきっていると考えられ、悪く考えれば、どこから電話が掛かろうと珍しいことではなく、放任しているのかとも考えることがありました。
本恒夫について
犯罪への関与について明確に指し示す具体的な根拠はありませんが、東渡を金沢市場輸送に招き入れ、その直後から東渡が傍若無人な振る舞いで混乱を引き起こし、他の社員をそそのかしてストライキを行い、対立的な立場であったときの態度、私に会社に愛想をつかせて、市場急配センターに導いた振る舞い、そのきっかけを作った安田敏の入社など、事情に知悉し了解していなければなしえなかった関与をしている人物です。大の麻雀好きで、連日夕方から金沢市場輸送の休憩室で麻雀をしており、東渡や堂野もその常連メンバーであり、松平日出男やその友人であるカベヤこと松岡という人物もよく出入りをしていました。
堂野は松浦の紹介で当初、イワシ運搬の持ち込み運転手として仕事をしていましたが、安田繁克というのはその松浦の愛人の息子で、松浦の紹介で入社したと聞いていました。
竹沢俊寿について
金沢市場輸送、市場急配センターの経営者であり、金沢市場輸送の社長であったものの会長になると同時に、本恒夫を金沢市場輸送の社長にし、松平日出男を市場急配センターの社長にしました。
松岡同様、安藤文さんのフィルム貼りの手伝いを目撃し、ずいぶん驚いた顔をしていましたが、両者の実質的な経営権を掌握しており、すべてを見通したうえで、成り行きを実行役に任せていたという首謀者的な立場の疑いのある人物です。そのような関与がなかったのであれば、松平日出男の独断でなしえなかった計画と解釈するのが合理的であり、全体的な計画の目的、人員の配置、采配を推し量るうえでも黒幕的な存在であって、事案の真相解明には欠くことの出来ない人物でしたが、安田敏によると数年前に死去したといいます。
また、その死亡についても、安田敏は私に話す時期を意識的に先延ばした形跡が窺え、だとすれば、安田敏自身が犯行を通じて特別な関係であることを十分認識していたという解釈が成り立ちます。
この告訴状について(平成19年2月26日)
上記の部分を昨年12月の一日に作成し、そのままずっと手つかずで中断していました。
現在の日時時刻は2007年2月26日の21時40分ですが、これから記述を再開したいと思います。自分自身、とても思い悩むことが多く、今日の朝、金沢地方検察庁の遠塚さんに掛けた電話で、告訴状を書く気持ちになれないので、提出しませんとお伝えしたところですが、もう一度良く考え直したうえで、再度取り組みたいという気持ちになりました。
自分の告訴、告発の問題と直接関係はないのですが、このところ検察の誤捜査や誤起訴が続き、私がみるネット上の情報は非難の嵐というか、同時に言いたい放題の一方的な自己主張が際立っているように思えてなりません。そんな世情の渦中の中で、ずっと前から御庁にも、検事総長にもご紹介済みの私のブログは、アクセス数も際立って乏しく、もはや忘れ去られているようです。
かえりみれば、自分自身がしっかりした説明や主張をせず、時々の気分や感情にとらわれて、いたずらに時間を過ごしてきたという事情もあるかと思います。それなりの出来事や理由もあったのですが、今はそれを書いている余裕はありません。
本当は、これまでメールの返信や、ブログのコメントなどの反応について、発信者の情報を開示し、ありのままの現状をお伝えすることで、世論を喚起しようとも考えていたのですが、問題の前提となる事実について、自分自身が十分な説明をしていない以上、現時点においてそれは適切ではないと判断しました。
もっともそのような事情を差し引いたところで、アクセス数の乏しさは際立っており、ありのままの現状を安藤健次郎さんにもお伝えしたいと考えていました。これは個人情報の保護にも抵触する問題であり、公益性を優先すると言っても、それも私個人の独自の判断ということになります。
さらに、その公益についての世間の理解自体が、じつにあやふやで不確かなものになっておりますし、本来、公益の代表者である検察を含め、警察の捜査のあり方の信頼性を根本からなし崩しにするような不手際というのか大失態も続発しているようです。
このような世論を取り巻く状況について、立ち入っている暇もないのですが、一つだけ看過しがたいブログをご紹介しておきたいと思います。
<AAA植草一秀氏を応援するブログAAA>
http://yuutama.exblog.jp/5164701/
ご存じかどうかわかりませんが、以前早稲田大学の教授でもあった植草一秀氏の痴漢冤罪について取り上げているブログのようです。いわゆる国策捜査で、陰謀にはめられたような説明がされていますが、担当の検察官は否認するなら、家族を含め徹底的に苦しめてやると言ったそうです。ちょっと読んだところ、そのような検察、警察非難も説得的、合理的に感じる部分もありました。信じる人も少なくはないようです。
私自身、さほど関心のない事件であり、どちらが正しいのか断定的な決断も下せないのですが、疑問に思うところがあります。そのブログで、ブログ主の「ゆうたま」という人物は、自分のブログの書き込みについて、植草氏とは無関係と断りをいれ、さらに投稿内容の一部の引用までも一切厳禁と言っている点です。国策とか陰謀とか公益の信頼性の重大事についてインターネットという公共の場で言及するのであれば、幅広く意見を求め、議論の場を提供すべきではないと思われます。
そのブログには、以前、トラックバックを何度か入れたことがあり、自分のブログの方にもコメントも一つ頂いたかと思います。その時は、どこのブログかわからなかったのですが、あとで気がつきました。
この告訴状は次の日曜日、つまり3月4日には仕上げて郵送する予定です。明日の朝、もう一度、御庁のトウヅカさんに電話を掛け、その旨お伝えしておきます。前々から、出す出さないは、廣野さんの自由ですよ、と言われていたので、提出取りやめの際にもあっさりと承諾を頂きました。ただ、その前、一週間ぐらい前に電話を掛けたとき、まだ全然書いていませんとお伝えしたときは、心なしか落胆されたような印象が窺えました。
今日の電話でもお話ししたことですが、殺人未遂の公訴時効が来月31日に差し迫っており、告訴状を読んで必要を認めたうえで捜査を始めることになりますと、うかがいました。起訴からさかのぼってもおおよそ逮捕から23日だと以前勉強した記憶があります。その起訴も、起訴状一本主義というぐらいですから、あながち期間がないわけではないでしょう。それにしても、御庁の余裕には、私の理解を超えたものがあり、正直なところどういうように進んでいるのか見当もつきません。
はっきりしていることは、共犯者の一部が起訴されれば、共犯全員の公訴時効が停止するということです。
ところで、市場急配センターのホームページですが、アクセスカウンターが今日現在で3041件です。関心の低さを象徴するような数字ですが、あと一月ほどで、その後の運命が決定的に方向付けられることになります。3月31日までに御庁が起訴をしなければ、今後刑事責任を問うことは出来なくなり、関係者はさぞかし、安堵で胸をなでおろすことでしょう。
次に、この告訴状でこれから書く内容の要点をご説明しておきたいと思います。これは告訴状なので私自身が殺人未遂の被害者と言うことになります。事件の外形としては、私自身が同じ会社の同僚事務員である安藤文に対して意識不明の重体に陥らせるほどの暴行を働いているので、結果だけを見れば、どれほど荒唐無稽な論理の飛躍と映るかと思われます。実際、被害者本人が、金沢西警察署に出頭直後、搬送中の救急車内で意識を失っているので、私と二人しかいなかった当事者から話しを聞くことは出来ません。言い換えれば、私以外に、当時の状況を知る人は存在しないのです。
その私が、被疑者というもっとも不利な立場に置かれてしまいました。運命のいたずらなのか、不幸中の幸いであったのか、一命はとりとめ、その後、意識も回復したと聞いておりますが、もう15年近く一度も会っておらず、話しもしていません。彼女と直接会うことは許されず、空白期間が多いものの間接的に、父親である安藤健次郎さんとは断続的に話しをする機会がありましたが、最後に会ったのが、昨年の10月で、このあたりの詳細な説明もご紹介済みの、ブログには書いてあるはずです。
いずれにせよ、一方の当事者である安藤健次郎さんが沈黙を貫き、私との接触、話し合いを拒む状況で、私は、15年以上前の事実について、現在の自分の記憶にのみ頼って、事実を書くしかありません。
細かい事実の経過については、これまでの告発、告訴状にも一通りのことは書いてあるはずなので、紙面と時間の都合上、大幅に説明を省かせて頂く部分のあるかと思います。
今回、重点的に詳しく書きたいのは、平成4年1月21日のことです。安藤文本人から話しが聞けない以上、私個人の推量になる部分も多々あるかと思いますが、内容の正確性については十分な自信を持っていますし、それが安藤文の本心であると同時に、真意を汲み取り、信じ切ることが出来なかった、私自身の、言い訳と事情についても書いておきたいと思います。とにかく、この当日は、4月1日の事件当日に次ぐ、大きな分岐点のような一日で、真相の大きな鍵を握る被告訴人の一人、浜口卓也とも密接に関わっています。
そして、4月1日の状況についても、これまでの告発状の中で、書いていなかったことに焦点を当てたいと考えています。
私が向き合った安藤文の人なりの虚像と実像、いわば光と影の部分が交錯することになるかと思いますが、それが被告訴人らが醸しだし、作り上げた舞台装置であって、殺人の危険性をはらんだ悪意と、実行行為の顛末を事実として物語ることになると思います。
この告訴状について(3月4日)
時刻は23時30分になったところです。結局、26日に少し書いてから手をつけることが出来ず、こんな時間になってしまいました。公訴時効の期日も差し迫っているので、あと一時間ほど書いて仕上げ、郵送したいと思います。
これまで以上に中途半端な内容になってしまいました。このまま提出しないことも繰り返し考えたのですが、以前書いてある部分もあるので、一応書面として提出しておきたいと思います。
なぜ、ここまで取り組めなくなったのか、自分自身でも不思議なぐらいですが、インターネットやブログを使った情報公開でも、反応はものすごく乏しく、否定的な感想や意見がほとんどでした。つまり誰にも相手にされていないことになり、これも現実として受け止めねばなりません。
最高検察庁から返信のあった書面の写真もブログに掲載しましたが、反応はごくごく乏しいものでした。事件番号までふってあったのに、マスコミも誰も歯牙にもかけず、まったく問題にしていないようです。ブログの方には、コメントで「お前に人権などない」という書き込みもありました。他にも責任転嫁などという見解がほとんどのようです。
皮肉なことですが、私の問題に限っては、検察や裁判所の信用性は、疑いもなく保たれているようです。
産経新聞社のブログや、弁護士さんのブログにトラックバックを送信していましたが、そちらの反応がなかったことも、なおさら読む価値のない、相手にするまでもない問題として片づけられることに拍車をかけたのかもしれません。
あと、共謀罪反対者のブログでは、コメントを削除されたり、トラックバックを速攻で削除されてきました。最高検察庁からの書面の紹介のブログも、即座に削除されていました。
御庁の遠塚さんの話し方によれば、検事総長からの書面ということになっていましたが、私のみならず、検察や司法そのものが国民からはまともに相手にされていないのかもしれません。専らの関心事は、責任を免れることや、自分らの主張を聞き入れる耳を持つことにあるような気もしています。
他にも個人名を掲載しているので、個人情報の保護とか、そちらの利益の方にウェイトがおかれているのかもしれません。
すれ違いもあるかと思いますが、このような現状において、具体的な犯罪事実を実名を挙げ、公開することにためらいも強くなりました。関係者の実名を伏せることが、かえって誤解や混乱に繋がると判断して来ましたが、このように反応が乏しいというのも、可能性としての二次被害を防ぐ意味でも、一定の成果があったのではとも考えられます。
告訴の事実自体は、これまで繰り返し、御庁に書面を提出してきた内容であり、特に平成12年頃に金沢刑務所から郵送していた書面が記憶も新鮮で、内容も具体的になっているかと思います。
これほど反応が乏しく、相手にされていないということは、マスコミは知る機会、伝える機会を放棄したとも受け取れるので、あとは通常の事件通り、密行性の高い処理をして頂ければとも考えています。
もっともその前提としての事実経過に、理解を超えた問題があり、誰にも理解されなかったとも思えるのですが、いずれにせよ、私としてもこのような中途半端なことしか出来ませんでした。
公訴時効まであと一月を切っており、遠塚さんのお話だと告訴状を読んで、必要性があれば、捜査を初め、それから起訴の判断をするということです。具体的な事実については、ご指摘とご要望があれば、上申書というかたちで、私の知ることを書いて提出致します。
また、3月中の平日には、派遣先の会社の都合で、平日に3日間の休みがあるので、その間、ぶっ続けのぶっ通しでも、直接御庁にて、検察官の質疑に応える旨、遠塚さんに伝言をお願いしてあると思います。
情報公開であるブログの方も、必要があれば、これまで同様に書き込みをするつもりでいますが、事件に関しては長らく休止中であり、起訴されなかった場合、全面的な削除や消去も考えています。
事実を知る私からすれば、「マヌケ大王」とでもいうべき、御庁の江村正之検察官の起訴によって歪められてしまった事実ですが、その前提の事実というのは、被告訴人らの身勝手で常軌を逸した供述に端を発しております。近頃でも冤罪や誤起訴が社会問題のようにマスコミに取り上げられていますが、検察権の行使の前提となる関係者の供述や言い分の問題性というのは、マスコミや弁護士もまったく念頭にはないかのようです。
「ぼくたちのお父さん」と言ってくれた子どものことや、「やせ蛙、負けるな一茶これにあり」という言葉など、事件に至った背景、実情について詳しく書いておこうとも考えていたのですが、どうしても手をつける気にはなれませんでした。
「無視されるというのは、人間にとってもっともつらいこと」と聞いたことがありますが、それだけではない、容赦のない手酷い反応のみが、社会の側から返り、それには金沢工業大学のような良識の期待される人まで含まれていたことは、私に立ち直れないようなダメージを与えてくれました。
それだけ人の理解を超え、社会生活の期待や信頼を根底からなし崩す問題性が含まれていたのであれば、公判維持においてそれらの人々を情状証人として喚問して頂きたいと思います。
私個人としては、基本的に検察や警察に説明する情報は、まったく同じように社会全体の人々に公開したいと考えておりますが、今のところ常識の波に押し流され、等閑に付されるしかなかったのかもしれません。
とにかく私としては、合理的に説明の出来ないような事実の主張や記述はこれまで一切行っておらず、15年来一貫したものであると自負しております。信用性に疑問を持たれたことは今のところないようですが、それ以前に、問題性のある人間と思い込まれているのかもしれません。具体的事実の内容に踏み込まず、指摘せず、ちゃんと読んでいるのかどうかも疑わしい、人々の反応ですが。
そのような社会や世相の反応もそのまま、このような混沌とした告訴状に反映されているものとご理解願います。
平日だけで3日間の休みがあるので、連日朝8時半から20時半ぐらいまで、私を検察庁に呼んで、納得の行くまで徹底的に取調べをして下さい。他の事件でも、関係者がブログで説明をすることは稀なはずなので、出来る限りの公正な刑事手続きということになるのではないでしょうか。
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