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告発状作成中

2021年2月11日木曜日

「金沢市場輸送」を過去のはてなダイアリーの記事から検索

  1. 20061016: そういえば、書き忘れるところでしたが、山出刑事は、「お前が、社長や堂野がどうしたと、ホームページに書いていることはよく知っている」と言っていたのですが、堂野に触れた部分というのは、比較的少ないはずです。被告発人、被告訴人にもなってはいません。事件の真相に近く、核心に触れる人物である可能性は高いのですが、平成4年の事件当時は、金沢市場輸送にいたはずで、被告発人、被告訴人に含めるだけの根拠を私自身はもっていないからです。
  2. 20070305: 犯罪への関与について明確に指し示す具体的な根拠はありませんが、東渡を金沢市場輸送に招き入れ、その直後から東渡が傍若無人な振る舞いで混乱を引き起こし、他の社員をそそのかしてストライキを行い、対立的な立場であったときの態度、私に会社に愛想をつかせて、市場急配センターに導いた振る舞い、そのきっかけを作った安田敏の入社など、事情に知悉し了解していなければなしえなかった関与をしている人物です。大の麻雀好きで、連日夕方から金沢市場輸送の休憩室で麻雀をしており、東渡や堂野もその常連メンバーであり、松平日出男やその友人であるカベヤこと松岡という人物もよく出入りをしていました。
  3. 20080624: そういえば、書き忘れるところでしたが、山出刑事は、「お前が、社長や堂野がどうしたと、ホームページに書いていることはよく知っている」と言っていたのですが、堂野に触れた部分というのは、比較的少ないはずです。被告発人、被告訴人にもなってはいません。事件の真相に近く、核心に触れる人物である可能性は高いのですが、平成4年の事件当時は、金沢市場輸送にいたはずで、被告発人、被告訴人に含めるだけの根拠を私自身はもっていないからです。
  4. 20080712:

    2.1.1  金沢市場輸送

  5. 20080712:
  6. 2.1.1  金沢市場輸送
  7. 20080712:2.1.1  金沢市場輸送
  8. 20080712: + 2.1.1  金沢市場輸送
  9. 20080624: そういえば、書き忘れるところでしたが、山出刑事は、「お前が、社長や堂野がどうしたと、ホームページに書いていることはよく知っている」と言っていたのですが、堂野に触れた部分というのは、比較的少ないはずです。被告発人、被告訴人にもなってはいません。事件の真相に近く、核心に触れる人物である可能性は高いのですが、平成4年の事件当時は、金沢市場輸送にいたはずで、被告発人、被告訴人に含めるだけの根拠を私自身はもっていないからです。
  10. 20080408: それと、金沢市場輸送での最後の運行も、神戸になりました。
  11. 20080408: 神戸ポートアイランドといえば、いろいろと思い出すことがあります。昭和59年、金沢市場輸送で初めて四トン車の長距離に乗り、ちょくちょく行っていました。港島とも呼んでいたと思います。当時は、まだ空き地も多かったですが、現在は多分大きく様変わりしていることでしょう。その港島に通称「エルヨン」という倉庫があり、そこに輸入物の果物(外果・がいか)を積みに行っていました。
  12. 20070326: それに金沢市場輸送で特徴的だったのは、市場関係の仕事だと、夜中に荷卸しが終わるということがあり、昼はだいたいのんびりぶらぶらとしていました。
  13. 20070326: 初めに意識をしたのは、まだ私が金沢市場輸送にいた頃で、私がトラックを運転して、金石街道沿いをゆっくり走っていたとき、ちょうど信号待ちからスタートした時だったのかもしれません。道路沿いの弁当屋の前に、安藤文さんが立っていて、たまたま目があったのですが、彼女は軽く微笑んで、特別ななにかを感じさせるような気配がありました。
  14. 20070326: 金沢市場輸送や市場急配センターでは、年齢層がはっきりと分かれていました。二十歳前から二十代の層と、40代からそれ以上の年齢層です。
  15. 20070326: 私自身金沢市場輸送にいた頃、小林運送の社長に、事務所に連れ込まれたこともあり、助手を始めた少年時代には、「お前は、今日から家畜や」と言われたことがありました。どこぞのうどん屋に殴り込みをかけたとか、そんな荒っぽい話しもずいぶん聞く、そんな社風の運送会社でしたが、市場急配センターが小林運送の仕事を始めたと聞く、少し前ぐらいに、浜口卓也が小林運送の運転手をどこかに連れ込み、こづいて脅したか、ケンカを売ったような話しも聞いていました。東渡らの話しで、彼らも小林運送をへこますような勇ましいことを言っていました。
  16. 20070326: このような過程において、小林運送の先代の社長の夫人が、金沢市場輸送に怒鳴り込んで来るという出来事もあったと聞きました。
  17. 20070326: 私が初めに金沢市場輸送をやめた昭和59年10月以降に、発足したらしく、昭和61年に私が市内配達をしていた頃は、このような状況でした。中心になっていたのが金沢市場輸送でしたが、そのうち独占するようになり、市場急配センターになって、中央市場の横に事務所を構えるようになったのです。
  18. 20070326: 市場急配センターの前身というか母体というのは、仲買の呼びかけか要望で、小林運送、日栄運送、金沢市場輸送、石川日通、それともう一つがはっきり思い出せないのですが、諸という字のつく、松任市あたりの運送会社が、2トン車を集め、仲買の青果の配達をしていたのです。金沢市場輸送以外は、各一台ずつ、運転手も各一名ずつでした。
  19. 20070326: 大阪や名古屋にも別の運送会社が運んでいたのかもしれませんが、金沢市場輸送では東京と東北がほとんどでした。
  20. 20070326: また、過去の資料に書いてあると思いますが、佐賀県の鳥栖市にあるトラックステーションのレストランで、日栄運送の運転手が、「竹沢は、まだ生きているのか、10年前からもうすぐ死ぬと言いながら....。」などとあきれたように話していましたが、その運転手は以前、金沢市場輸送にいたような話しでした。翌日に、私が佐世保の魚市場に魚を積みに行ったときのことです。
  21. 20070326: 仕事の方が金沢市場輸送の方でもらうのがほとんどで、日栄運送に仕事を回すというのは余りなかったようです。詳しくは知りませんが、そんな義理を欠くかたちで、本恒夫は仕事を横取りしたそうです。それだけやり手であったのは事実のようですが、やり方が卑劣というか恥知らずの非常識で、各方面で何かと恨みや反感を買っていることもちらほらと耳にしていました。中には「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と言われた運転手もいたそうです。
  22. 20070326: もともとその古河の仕事というのは、同じ金沢の日栄運送がやっていた仕事で、金沢市場輸送の本恒夫がそれを強引に横取りしたらしく、ずいぶんと反感も買っていたようです。
  23. 20070326: この運行のあと、しばらくして初めて古河の市場に行き、同じような白菜かキャベツの荷物を積んだことも印象的に憶えていました。臨時の仕事のようなもので、古河の市場に行ったのですが、金沢市場輸送で本格的に古河の市場の仕事をするようになったのは、その数年後の、平成2年の秋ぐらいだったと思います。
  24. 20070326: この時、朝方の松山市内で居眠り運転をしたことなど、以前の書面に書いてあるかと思います。金沢市場輸送の大型車での仕事で反対車線にはみ出すような居眠り運転をしたのは、これが一度だけでした。
  25. 20070326: 長男が生まれたのは昭和61年の6月で、その年の8月の20日頃から金沢市場輸送に二度目の入社をした私は、市内配達の仕事をしながら11月の27日に念願の大型免許を取得しました。そして翌年の4月頃には、当時の竹沢社長の特別な声で、いきなり新車の10トン車に乗務したのです。当時の大型運転手には職人気質のようなものが残っており、新車をもらうのは長くて10年ほど掛かるとも言われたいたのですが、それがいきなりの大抜擢のうえ、表立って異を唱える運転手もいませんでした。
  26. 20070326: 主人とは顔見知りでしたが、もともと金沢市場輸送で電気系統の修理にトラックを持ち込んでいた得意先でした。そのうち余り行かなくなったのですが、たまたま思い出して、会社の近くのその店で直してもらうことにしたのです。
  27. 20070326: それまで住んでいた東力のアパートというのは昭和59年の春に、大網健二と共同で借りたものでした。私はその年の1月に金沢市場輸送に入社し、それまではほとんど友人の所を泊まり歩くか、トラックの中で寝泊まりする生活をしていたのです。詳しい経緯ははっきりと思い出せませんが、その春頃に私の紹介で大網健二も金沢市場輸送に入社し、同じく4トン車の長距離輸送の仕事をしていました。
  28. 20070326: 初めて彼女のショートカットの姿を見たのもその翌日だったと思います。ひそかに私はその髪型が彼女には一番似合っていると感じていたのですが、安田敏は「女の子が髪を切るのはよっぽどの事情がある」などと私の不安を煽るようなことを言っていました。ちなみに、金沢市場輸送で彼女を見かけるようになった頃は、いつもポニーテールの髪型で、書類のような束を両腕をクロスに組み胸に大切そうに抱える姿が印象的でした。市場急配センターで姿を見るようになってからは普通のロングヘアーのことが多く、ポニーテールというのはさほど見かけなくなっていたような気がします。
  29. 20070326: 安藤文さんがナカノさんの目の前で、突然メガネをかけ出したのもこの時だったかもしれません。ナカノさんというのはかなり前から金沢市場輸送で東北便の福井中継を担当していた人で、私もよく知っている人でした。
  30. 20070305: 金沢市場輸送、市場急配センターの経営者であり、金沢市場輸送の社長であったものの会長になると同時に、本恒夫を金沢市場輸送の社長にし、松平日出男を市場急配センターの社長にしました。
  31. 20070305: 犯罪への関与について明確に指し示す具体的な根拠はありませんが、東渡を金沢市場輸送に招き入れ、その直後から東渡が傍若無人な振る舞いで混乱を引き起こし、他の社員をそそのかしてストライキを行い、対立的な立場であったときの態度、私に会社に愛想をつかせて、市場急配センターに導いた振る舞い、そのきっかけを作った安田敏の入社など、事情に知悉し了解していなければなしえなかった関与をしている人物です。大の麻雀好きで、連日夕方から金沢市場輸送の休憩室で麻雀をしており、東渡や堂野もその常連メンバーであり、松平日出男やその友人であるカベヤこと松岡という人物もよく出入りをしていました。
  32. 20070305: ちなみに12月から1月になると、金沢市場輸送に給油に行くことはほとんどなくなっていましたので、その二人の女子事務員と会うこともなかったと思います。一人は谷口という名前ではなかったかと思います。金沢市場輸送にいるときは、たまに話しをすることがあり、割と気安く喋りやすい間柄でした。
  33. 20070305: 金沢市場輸送には20代後半の女子事務員が二人いて、私も以前話しをすることがあり、10月の後半から11月の前半だったと思いますが、金沢市場輸送に給油に行ったとき、珍しく外にいたその二人の女子事務員にトラックに乗せて欲しいと頼まれ、その場で断ったことがありました。
  34. 20070305: また、これもその数日前、安田敏から聞いた話しでは、安藤文さんが好きな人にプレゼントをするため、金沢市場輸送の女子事務員に手編みの編み物を習いに行っていたそうです。
  35. 20070305: 事故というほどのものではありませんでしたが、平成3年の11月頃には、夕方に10トン車を会社近くの工事現場に突入させ、松平日出男が金沢市場輸送から応援を呼んで、別の10トン車で引っ張り出すという出来事がありました。金沢市場輸送で麻雀をしていた多数が集まり、引き上げには予想以上に手間取って時間がかかり、途中激しい夕立もあってずぶ濡れになる姿もあったと記憶しています。特に印象的だったのは、本恒夫が無言で真剣になって作業をする姿でした。
  36. 20070305: 安田敏はその年6月頃に、私の紹介で金沢市場輸送に入社し、その直後から市場急配センターで仕事をしていました。作為あるいは意図的と思われるようなトラックの物損事故を繰り返したり、問題のある行動や発言も同様に繰り返していました。まず金沢市場輸送の入社に際して、50万円の前借りをし、私がその保証人になったのですが、実際に給料引きの支払いを始めたのは早くてその年の12月からで、あるいは翌年の1月からです。口ではお金に困っているようなことも説明してはいましたが、具体性もなければ、切迫感もまったくありませんでした。
  37. 20070305: まず、もっとも不自然で怪しい点は、平成3年6月頃、私が市場急配センターの同列会社である金沢市場輸送を辞め、市場急配センターで仕事をするようになった直後から、それまで毎日金沢市場輸送の事務所で仕事をしていた池田宏美が、市場急配センターの事務所で一日中仕事をするようになったことです。全体的な計画性の推進役として送り込まれた可能性が高く、主に安藤文さんに対して反応を窺い、情報を聞き出しながら、働き掛けを行っていたものです。
  38. 20061030: 同じ、小木の遠洋漁船に乗っていたという別の人物は、東渡の仲間で、よく金沢市場輸送に来て麻雀をしていました。東渡を子分のように扱うことがあり、粗暴なところのあるような人物でしたが、その人物も同じ2月頃に市場急配センターの休憩室に来たことがありました。
  39. 20061022: 私は昭和六二年の四月に金沢市場輸送で新車の大型保冷車に乗務してから、居眠り運転をしたのは一度だけでした。それというのもその新車での初めての運行で、四国の松山市に行き、朝方松山市内に近いところを走行中、居眠りをしました。
  40. 20061016: そういえば、書き忘れるところでしたが、山出刑事は、「お前が、社長や堂野がどうしたと、ホームページに書いていることはよく知っている」と言っていたのですが、堂野に触れた部分というのは、比較的少ないはずです。被告発人、被告訴人にもなってはいません。事件の真相に近く、核心に触れる人物である可能性は高いのですが、平成4年の事件当時は、金沢市場輸送にいたはずで、被告発人、被告訴人に含めるだけの根拠を私自身はもっていないからです。
  41. 20061002: 金沢市場輸送をやめ、市場急配センターの仕事をするようになったことで、収入自体は月三〇万円程度だったが、税金を引かれた手取り収入は二〇万円ほどに激減しており、借金の返済、誤魔化しが不可能になった妻が家出をすることは、いわば必然であり、被告訴人らの目論見通りの経過であった公算が高い。
  42. 20061002: 借金の返済もようやく終わりに近づいていると妻から説明を受け、子供も来年から小学校に入学を控えたうえ、鮮魚の長距離輸送でスピード違反も多く、重量オーバーも多いので免許取り消しや停止にかかる危険性も高い金沢市場輸送の仕事に見切りをつけ、安定した仕事をしたいと考えているところであった。
  43. 20061002: 廣野は金沢市場輸送で長距離の仕事をしている頃、月々だいたい四〇万円ほどの手取収入があり、廣野はその全額を妻に渡して、サラ金の支払いも任せっきりにしていた。なお、この借金には、廣野が妻から頻繁に金をもらい受け、また長距離の仕事の出先運送会社で前借りをした金額も多いもので、使途をパチンコ、パチスロの遊行に蕩尽した落度も大きく響いている。
  44. 20061002: 竹沢俊寿や池田宏美は、金沢市場輸送事務所においても廣野が、仕事も真面目でよくできる好人物と安藤文に吹聴していた可能性が高く、俗な言い方をすれば女衒まがい、やり手ババアの豊富な経験や才覚を活かし、安藤文と廣野が性格的にも似たもの同士であり、相思相愛の恋愛関係になる可能性を熟知し、当たりをつけ自らその方向を目指して積極的に働きかけていたものと推認される。
  45. 20061002: また、自腹を切った慈善で割の合わない少ない給料で配車の仕事をするようになったと話していた本恒夫が、じつは月給一〇〇万円の条件でボーナスも破格の待遇を受けていたという噂が金沢市場輸送社内に流れたのも、安田敏が入社した直後のことだった。
  46. 20061002: ここでまず廣野と安田敏の新規長距離部門の乗務が決まったが、廣野が市場急配センターに移ると同時に、その翌日からはそれまで毎日金沢市場輸送の事務所で机に座り仕事をしていた被告訴人池田宏美が、市場急配センター事務所で仕事をするようになり、安藤文と机を向かい合わせ、一日中事務の仕事をするようになった。
  47. 20061002: この過程において、本恒夫は廣野を意図的に挑発し、金沢市場輸送をやめる方向に導き、安田敏の借金の保証人のことで話し合いに訪れた市場急配センター事務所で、松平日出男が一日1万五千円の市内配達のアルバイトを持ちかけ、廣野が承諾して仕事を始めるや、すぐに、市場急配センターで大型車を導入し青果物の長距離トラック業務を行うので、大型車に乗務して欲しいと持ちかけた。
  48. 20061002: これは廣野の性格や家庭事情を計算した上での誘導操作であった可能性が高く、事態はその思惑通りに推移し、会社に愛想をつかした廣野が欠勤を続けていたところ、大網兄弟らと同じく同郷の友人であった被告訴人安田敏から連絡が入り、相談の末、安田敏が金沢市場輸送から五〇万円の前借りをし、廣野がその保証人になることを条件に金沢市場輸送への入社が決まった。
  49. 20061002: 被告訴人東渡好信は、平成二年の秋頃、金沢市場輸送に入社した。本恒夫の紹介という噂であった。
  50. 20061002: 大網健二には大網周一という一つ年上の兄がいて、大網周一は浜口卓也と自他共に兄弟分というほどの親密な関係であった。また、この大網兄弟は昭和五九年当時、廣野の紹介で金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしたこともあり、竹沢俊寿、本恒夫とも顔見知りであった。なお、中町も昭和五九年の秋頃からしばらくの期間、金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしていた経歴がある。
  51. 20061002: 被告訴人浜口卓也もその一人であり、平成二年の七月ぐらいに能都町姫出身の中町和也の紹介で、同じく持ち込み運転手をするようになった。中町はカワムラという宇出津出身の人物とともに、松平日出男が金沢市場輸送に市内配達部門の責任者として就任した直後からお供のようなかたちで参加し市内配達部門の持ち込み運転手をしていた。
  52. 20061002: 金沢市場輸送と市場急配センターは実質的同一会社であったが、社員や持ち込みと呼ばれる専属運転手には、廣野と同郷の石川県鳳至郡能都町宇出津(現在、鳳珠郡能登町)周辺の友人知人が多く、人脈的繋がりが多かった。
  53. 20061002: 廣野秀樹は、昭和五九年の一月に初めて金沢市場輸送に長距離トラック運転手として入社したあと、三度入退社を繰り返したいたが、昭和六二年の四月頃に入社してからは大型トラックの乗務員として稼働していた。
  54. 20061002: 安藤文は市場急配センターが新社屋に移転してまもなく、平成二年の春頃に事務員として入社したが、仕事の主要な一部は、金沢市場輸送事務所に置いてあるパソコンを使ったデータ入力であり、金沢市場輸送事務所に置いて仕事をする機会が多かった。
  55. 20061002: 平成二年頃になると市場急配センターは新社屋を建設し、金沢市場輸送事務所から丸ごとそちらへ移転したが、税金対策の誤魔化し目的で建前上の請け負い業務をするなど、実質的には一心同体の同一会社であったといえる。
  56. 20061002: 金沢市場輸送は表向きの運送会社とは別に、何らかの組織的犯罪活動を行っていた集団であると推定される。昭和63年の8月か9月頃松平日出男が市内配達部門の責任者として入社し、その後半年から一年ほどで、市場急配センターという別会社を設立、金沢市場輸送の社長であった竹沢俊寿が会長に就任し、金沢市場輸送の配車係であった本恒夫が金沢市場輸送の社長、松平日出男が市場急配センターの社長にそれぞれ就任した。
  57. 20061002: 被告訴人竹沢俊寿俊寿は、金沢市場輸送株式会社、市場急配センター株式会社(金沢市駅西本町4丁目2番12号所在)両社の会長であり、両社の実質的経営者であったもの、被告訴人本恒夫は金沢市場輸送の社長、被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長、被告訴人東渡好信、池田宏美、梅野博之は市場急配センターの事務員であったもの、被告訴人、安田繁克、多田敏明、浜口卓也、安田敏は市場急配センターの社員運転手であったものであり、被告訴人、大網健二、大網周一、加田義満は告訴人廣野秀樹の友人関係にあったものである。
  58. 20061002:までの間、金沢市場輸送において主に長距離トラックの運転手社員として勤務、稼働した。
  59. 20060913: 詳しい人は沢山いると思いますが、面白い特徴として、現在の大阪の「あいりん地区」というのでしょうか。釜ヶ崎とも呼ぶようです。西成区。金沢市場輸送で昭和59年に金沢市場輸送で初めて長距離トラックに乗った頃、その西成区にある冷蔵庫にちょくちょく行っていたのですが、トラックの下に寝て、お金を渡すまで動かない人がいるので、気をつけるように聞いていました。
  60. 20060909: 吉村哲と藤田の二人は、中西運輸商に対して挑戦的で、中西運輸商から佐川急便の仕事を奪うことを目的にし、そのために金沢市場輸送に来たようですが、本恒夫がお山の大将のように独善的で、佐川の仕事には消極的だったようです。それでも金沢市場輸送のトラックで、佐川の仕事を中西運輸商の庸車ですることもありました。
  61. 20060909: だいたい30トンほど満載にし、主にフェリーを使ってやる仕事で、東渡も以前やっていたと話、東渡が金沢市場輸送に来るきっかけになったのも、以前、フェリーのなかなどで本恒夫と東渡が知り合い、たまたま再会してことで、本恒夫の方から誘ったような話でした。
  62. 20060909: エサの仕事というのは、冷凍した小魚を満載にし、四国や南九州のハマチの養殖場に運ぶ仕事のことで、月に2,3回程度の運行という一発屋のような仕事で、昭和59年の頃は金沢市場輸送でもちょくちょくやっていた仕事でしたが、私が金沢市場輸送で大型車に乗務したことにはしなくなっていた仕事で、私自身、話はよく聞いていましたが、一度もすることはありませんでした。
  63. 20060909: 社員同様、あるいはそれ以上に、金沢市場輸送の事務所に出入りしていました。もともとは宮城県の石巻港で、エサを運ぶ仕事をメインにしていたそうですが、エサの仕事がなくなり、運賃も安くなって金沢市場輸送の仕事をするようになったようです。
  64. 20060909: 彼は水産高校を卒業した長松さんと同じ頃金沢市場輸送で4トン車の運転手をしていましたが、その後、中西運輸商で大型保冷車の運転手をしていて、オジコとも仲良くしていましたが、その後、独立して白ナンバーの仕事をするようになり、中西運輸商の保冷車を中古で買い、主に金沢市場輸送の仕事を庸車でしていました。
  65. 20060909: 長松さんが自殺したのも、その少し後のことで、まず朝刊の記事を見て驚いたように思います。午前中、金沢市場輸送の事務所で、大西真、竹林、鴨などとその事件の話をしました。一番動揺していたのは鴨さんでした。
  66. 20060909: 金沢市場輸送には昭和59年頃、大西真というこれも古参の運転手がいました。50歳と年齢を聞いていましたが、何時頃であったのかははっきりしません。本恒夫よりはすこし年上のようでした。
  67. 20060909: ここにオジコこと干場充行という珠洲市三崎出身の私よりひとつ年上の男がいて、守田と輪島屋鮮冷の間を行ったり来たりしていました。もともとは中西運輸商にいた頃もあり、私が昭和59年の10月頃に金沢市場輸送をやめる一月ほど前には、私の紹介で金沢市場輸送に入社し、しばらく4トン車に乗務していました。
  68. 20060909: 守田はもともと青森の定期便をメインにした鮮魚、冷凍物の運送会社で、やりとりを始めてからは一日交替で、青森の定期便を金沢市場輸送でするようになり、それでちょくちょく秋田や青森に鮮魚を運んでいました。金沢市場輸送が新社屋を建設し移転してからもしばらくの間は、敷地内のある給油機に軽油を入れに来ていました。
  69. 20060909: 守田水産輸送は、もともと金沢市場輸送と同じ中央市場前の2階建てテナントビルのなかにあった会社で、本恒夫が配車係をするようになってから仕事のやりとりもするようになったのですが、1年半ほどで付き合いも断絶したようです。
  70. 20060909: 私自身、中西運輸商の4トン車で下に付いている燃料タンクのコックを折り、軽油を垂れ流した経験もあったので、相談したところ、金沢市場輸送からこれもポンコツの10トン車を引っ張り出して、荷物を積み替えることになりました。
  71. 20060909: 要するに、私が金沢市場輸送からいなくなった直後ぐらいに、新車で導入され自分が乗務していた三菱ふそうの大型ウィング車を、竹沢俊寿が松平日出男と自分に断りもなく話し合い、そのトラックを金沢市場輸送から市場急配センターに譲り渡すと決めたことが気に入らなかったらしく、松平日出男を探しに来たようです。「殺してやる」などとも口走っていたかもしれませんが、全体的にわざとらしく演技じみた行動でしたが、あまりに興奮の方も激しかったので、物騒でもあり気味悪くは感じていました。
  72. 20060909: 結局、金沢市場輸送をやめた直後、安田敏の入社の条件のようになっていた50万円の前借りの保証人になっていた頃から、その話をつけておく必要があり、市場急配センターの事務所に出向いたところ、松平日出男に一日1万5千円の日当を出すので配達の仕事をして欲しいと誘われたのです。
  73. 20060909: 直接的に言うことはありませんでしたが、初めから私の紹介で金沢市場輸送に入社することを目的としていたはずです。そしてこれもどこかわざとらしい接近のような雰囲気を感じさせるものでした。深くは考えませんでしたが、どこか不自然さも感じられたからです。
  74. 20060909: 先日、このブログでも掲載した「証拠番号5」の書面の冒頭に書いてあることですが、私はそこで、金沢市場輸送から市場急配センターに移った時期を5月下旬と記載していますが、実際は6月下旬であった可能性が濃厚です。私自身、5月だと思い込んでいたのですが、斐川弁護士から郵送された縮小版の資料のなかにも「運行表」があり、今確認すると6月18日が最後の運行になっています。
  75. 20060909: 吉村哲と藤田は野心を抱き、佐川急便の仕事を金沢市場輸送に引っ張るのを目的としていたようです。実際、5,6人の九州の運転手を金沢市場輸送に連れてきたことがありましたが、みなすぐにやめて行き、残ったのは井口(もしくは猪口)という運転手だけで、彼は東渡とも親しくしていたようで、一緒に長崎県の松浦漁港の市場に魚を積みに行ったとも話していました。東渡は、その市場でも一悶着を起こしてきたような話を聞きました。入社した当時からあちこちで、トラブルを起こしていたそうです。
  76. 20060909: しばらくすると吉村哲は、中西運輸商から藤田博巳という当時45歳から50歳ぐらいの元トレーラの運転手を金沢市場輸送に招き入れ、一緒に配車係をしていました。
  77. 20060909: そんな話をちらほら聞いている頃、吉村哲から連絡があり、私の紹介というかたちで、金沢市場輸送に入社し、配車係をするようになったのです。
  78. 20060909: その上、4トン車だったので、低床とも呼び、荷台の高さははるかに低くなっていました。それだけ箱の容積が大きく、沢山の荷物を詰めたことになります。ちなみに、金沢市場輸送の保冷車の箱のなかの高さは2100センチでしたが、中西運輸商の4トン車は3000センチ近くあったのかもしれません。
  79. 20060909: 金沢市場輸送では名前通り市場の仕事が多く、市場の仕事というのはセリの時間に間に合わせるため、大変なこともありました。雪の時期でも出発、到着時間ともにほとんど変わりがなかったからです。あとはたまにある大雨でも、神経のすり減ることはありました。
  80. 20060909: 金沢市場輸送を除けば、冷凍魚などを積む保冷車はほとんどがV型エンジンで、ターボ車に較べ燃費が悪かったのですが、それでも満タンにすれば、1300キロぐらいは走行できたと思います。
  81. 20060909: 本恒夫は私が初めて金沢市場輸送で働いた昭和59年当時、入社7,8年目という最古参の運転手でした。これは特別な意味もあることで、金沢市場輸送の給料システムでは、1年ごとに基本給が1万円ずつ増えて行くようになっていたので、一番の高給取りでもあったと推定されます。
  82. 20060909: 出所の際には、竹沢俊寿が身元保証人として向かいに来てくれ、金沢市場輸送に戻って再び仕事をするようになったとも話していました。
  83. 20060909: そのうち詐欺で警察の手配を受けるようになり、逃亡した先が金沢市で、金沢市場輸送で仕事を始めたそうです。そして1,2年ぐらいで警察の手に掛かり、静岡刑務所で1年ほど服役したと話していました。
  84. 20060909: 昭和59年の夏頃、金沢市場輸送に大久保という名前の30歳台の運転手がいて、他の社員の話では、静岡で弁護士をしていたといいます。4トン車の長距離に乗務していましたが、北陸道の富山インターで、スイカを積んだままトラックを横転させたそうです。みんなの笑いものになっていましたが、長続きはしなかったようです。
  85. 20060903: 同じ頃、金沢市場輸送にも電話を掛け、数年ぶりに本恒夫と話をしましたが、初め本恒夫は、私の名前を出しても知らないようにとぼけ、しばらくしてから思い出したように話を始めました。トラックの仕事をしたいので、現在の運送業界の事情について教えて欲しいといったところ、「君がいた頃の三分の二の給料で、」などと、よくない状態なのでとてもお勧めではないという説明をしていました。
  86. 20060827: そういえば、竹沢俊寿の夫人も金沢市場輸送で経理の仕事をしながら、掛け持ちで片町で小さなスナックを経営していると聞いていました。社員も誰もいなかような店と聞いていましたが、昭和63年の7月頃、新社屋に移転したのを契機にスナックの方は辞め、事務の仕事に専念していました。
  87. 20060827: 私自身も、竹沢俊寿に個別に事務所に呼ばれ、うまい話を言われたことがありました。私の場合、仕事の話で、辞めると言い出したときに、一月か二月仕事に出なくていいから、考え直してくれ、その間の給料は支払う、などと持ちかけられたのです。金沢市場輸送の事務所では、竹沢俊寿の部屋自体が特別な場所にあり、カラクリ屋敷を思わせるような作りになっていて、部外者の出入りも気がつきにくい構造になっていました。
  88. 20060827: 竹沢俊寿らしいといえば、それまでなのですが、どうも腑に落ちない気もしていたのです。とにかく金沢市場輸送、市場急配センターの関係者の大半は、竹沢俊寿に特別な指示を受けているように思われていました。
  89. 20060826: 書き忘れていましたが、大森朋彦は金沢市場輸送で、福井県内で4トン車を崖下に転落させ、竹沢俊寿に懸賞金をかけられ、また、大網周一と大網健二の兄弟がもっとも残酷な輪姦をした被害の際、大網周一の同調参加の呼びかけを一蹴した人物です。
  90. 20060826: 夜逃げや自殺が続出したと聞いております。ちょうど私が金沢市場輸送で4トン車の長距離運転手をしていた時期なので、昭和59年ということになりそうです。今のロシア、当時はソ連と呼んでいましたが、その間で漁業を巡る国際的な衝突が起き、大打撃を受けたそうです。意味自体当時はよく理解できませんでしたが、200海里問題はテレビのニュースでもしきりに報道されていました。
  91. 20060826: それが「一水」という小料理屋と言いますか小さな居酒屋で、オーナのママは50代後半から60代前半の人で、ちょうど金沢市場輸送の竹沢夫人と似たような年格好でした。大網健二の話によると片町という金沢の繁華街のクラブで働いていて、独立したような話でした。このような話を聞いたのは実際にその店に客として行くようになった翌年(平成11年)1月20日頃のことです。
  92. 20060826: 金沢市場輸送はつぶれたままの状態でしたが、正面に割と新しい乗用車が一台駐車されていました。
  93. 20060826: 中央市場の周辺もずいぶんと様変わりして、近代的な建物がいくつかできて、活況を呈しています。中央市場の裏手には、バナナセンターというところがあるのですが、その前に市場急配センターの4トン車が2台止まり、金沢市場輸送のカラーの4トン車もいました。金沢市場輸送はつぶれたはずなのに、と考えながら、再確認するとキャビン(運転席の部分)のドア後ろ上方に社名が書かれていませんでした。これは本来社名をその位置に書いておくことが決められているそうです。
  94. 20060806: その海士町の気性の荒い若者のほとんども、小木の遠洋漁船に乗務していたと聞いています。金沢市場輸送でも若い運転手の大半はその海士町の出身者でしたが、そこまで狂暴な人間はいませんでした。
  95. 20060805: 被告訴人の一人であり金沢市場輸送、市場急配センターの会長であり実質的経営者でもあった竹沢俊寿は、資金面で中西運輸商の社長を救ってやったことがあると自慢していた。竹沢俊寿は表立った運送会社の経営とは別に、いわゆる闇金のような金貸しをしていたという噂もある。
  96. 20060805: イワシの運搬の仕事は、ミール同様市場急配センターが元請けで、それを金沢市場輸送が請け負うというかたちになっていた。
  97. 20060805: その運送会社には、中西運輸商から金沢市場輸送の配車係になった吉村哲が、昭和61年頃に勤めていたという経緯もある。なお、吉村哲の父親は、平成3年頃、被告訴人の一人である安田繁克らと一緒に金沢市場輸送でイワシの運搬の仕事をしていた。
  98. 20060805: なお、新聞報道によると「金に困ってやった」とあり、数百万円の借金があったらしい。判決は早めに出て、服役、福井刑務所にいたらしい。同じ第二工場の一人の受刑者からしか、話を聞くことはなかったが、その本人も、金沢で強制わいせつ事件を起こし服役、冤罪であると訴え続け、再審請求もすると言っていた。市場急配センターや金沢市場輸送と同じ、金沢近辺の運送会社の社員であり、石過運送と言っていたと記憶している。
  99. 20060726: 長松さんも、その12月ぐらいに金沢市場輸送で仕事をするようになっていました。私は、その昭和61年の11月27日に念願であった大型免許を取得していたのですが、大型保冷車の空きがなく、ポンコツのイスズの大型平ボディ車で、ミール移動や、名古屋方面にミールを運んだり、6トンの保冷車で、臨時の乗務をしたりしていました。
  100. 20060726: 細かい説明になってしまいますが、当時の金沢市場輸送の事務所は中央市場の前の通りのテナントブルの2階の一室でした。正確に言うと、二部屋あり、奥の半分ぐらいがアコーディオンカーテンで仕切られており、手前が金沢市場輸送の事務所で、奥の部屋が全て竹沢社長の部屋でした。
  101. 20060726: それと、竹林のことですが、彼は平成2,3年頃、新田商店で働いていました。これも忘れていて急に思い出したことです。竹林が金沢市場輸送に入社したのが、だいたい昭和61年の12月頃でした。これは、池田宏美ともほぼ同時期です。
  102. 20060726: 高校を卒業すると、安田敏は金沢の中央市場にある「ウロコ水産」に就職、長松さんは金沢市場輸送で4トン車の長距離運転手をしていたと聞いています。考えてみれば、私が初めて金沢に出て仕事をするようになった昭和56年のことです。
  103. 20060725: 被害者は同じ会社に勤める女性事務員、安藤文。当時21歳です。私はその当時27歳でした。彼女との関係はその前年6月頃に私が、金沢市場輸送から事件の舞台になった市場急配センターに移ってからのことです。彼女と個人的な関わりを持つようになったのが、9月の中頃からで、10月の5日の夜の電話で、私は彼女に初めて交際を申し込みました。それから事件に至る半年ほどの間には、実に様々なことがありました。その積み重ねが、事件へと結びついたのです。
  104. 20060724: これは金沢市場輸送の関係者から聞いた話です。竹林という運転手だったと思います。彼は、以前松平日出男が石川トヨタで働いていた頃の、直接ではないようでしたが、部下のような立場だったそうです。
  105. 20060724: 長松さんとは、昭和61年の12月頃から1月頃まで金沢市場輸送で一緒に仕事をしました。彼はその時、まだ免停中だったかもしれません。その後彼は、新田商店に戻ったのですが、平成元年の1月ぐらいに、松波港の岸壁で、自殺したそうです。
  106. 20060724: なお、たった今久しぶりに思い出したのですが、KOJヒロミさんの夫となった長松さんは、私が初めて金沢市場輸送に入社する1年ほど前に金沢市場輸送にいて、その後、金沢港の新田商店(新幸とも)で4トン車保冷車に乗務していました。いわゆる魚屋、鮮魚問屋で白ナンバーのトラックでした。
  107. 20060724: 安田敏はその夏頃、市場急配センターで市内配達の仕事をしていたそうです。そのような噂を聞いて、中西運輸商のトラックで、金沢市場輸送に行ったところ、やめて岐阜に行ったと聞きました。その後、安田敏がちょくちょく行っていた岐阜県海津町のライスセンターの出稼ぎ仕事でした。
  108. 20060724: 私は昭和59年の1月から10月まで金沢市場輸送にいました。やめてまもなく、中町さんも入って4トン車の長距離の仕事をしていたようです。同じく、大網健二は4月ぐらいから7月頃まで。大網周一は6月ぐらいから、私がやめる一月前後ぐらいまでいたようです。
  109. 20060724: まず、市場急配センターというのは金沢市場輸送から分離独立した会社でした。もともと金沢市場輸送は長距離専門の運送会社だったのですが、昭和60年ぐらいから市内配達の仕事を手がけるようになったらしく、平成元年ぐらいに独立し、半年ほどして、事務所も現在のように出来上がり、そこに移転して行きました。
  110. 20051219:

     事件というのは平成4年の4月1日の起こりました。私が起こしたのです。この外形的な事実関係については、これまで一切の争いはありません。
     罪名は傷害と準強姦罪。後者は追起訴になり、併合審理を受けました。
     被害者は同じ会社に勤める女性事務員、安藤文。当時21歳です。私はその当時27歳でした。彼女との関係はその前年6月頃に私が、金沢市場輸送から事件の舞台になった市場急配センターに移ってからのことです。彼女と個人的な関わりを持つようになったのが、9月の中頃からで、10月の5日の夜の電話で、私は彼女に初めて交際を申し込みました。それから事件に至る半年ほどの間には、実に様々なことがありました。その積み重ねが、事件へと結びついたのです。
     彼女は、私が出頭した金沢西警察署から石川県立中央病院への搬送中、救急車内で、意識を失い、少なくとも3ヶ月ぐらいの間は、意識を失ったままで、意思表示をすることが出来ない状態だったようです。一応意識が戻ったと聞いたのは、その年、6月30日の公判の時でした。この公判が結審になり、8月3日に懲役4年の実刑判決を私は受けたのです。逮捕拘留から実質審理を受ける間だ、当人である被害者から話を聞くことが出来ない状況だったので、判決の基礎となった事実関係は、会社の同僚や、上司らによる供述と、被害者の両親によるものでした。要約すると、私が一方的に彼女に好意を抱き、執拗に交際を迫り、いい返事をもらえなかったことから立腹し、ついには殴る蹴るの暴行に及んだ、というものです。
     両親のことはとりあえず、除外します。しかし、この事実は、両親の供述というものは、極めて感情的なもので、法的効力を持つような信用性は、乏しいものだという印象を導きました。「知らぬは親ばかりなり」という印象です。しかしながら、本件では、幸いなことにこの通説を覆すような事実経過が、存在します。この点につきましても、後日ご説明したいと考えております。
     両親の供述供述調書も、私は見ておりますが、具体性がありません。それもそのはず、通常、自分の娘の会社のことは、ほとんど何も知らないものと言えるからです。ある程度の、会話はあったと思いますが、それによると彼女は、親切で優しい人たちのいる会社などと話していたそうです。
     警察としても、会社内の問題であり、会社の関係者の話を重視し、それを中心に捜査を進め、刑事手続きを進めたことは想像に難くないところです。
     どのような経過があったのか、私は当日に身柄を拘束されているので、直接には知る由はありません。ただ、初めから面会禁止などされておらず、何度か面会もしているので、おおよそのことは伝わりました。
     当時私は、これを自分と彼女の個人的な問題と考えていたので、大変なことをしでかした以上、理解や見方をしてもらうことは無理だと考えていました。それに頭の中にあったのは、彼女の容体の回復ばかりでした。意識不明の状態で、いつ死んでしまうかもしれず、このまま植物人間になる可能性も高かったのです。それ以外のことを考える余裕などほとんどありませんでした。自分にとって、不利な方向に進んでいるとはうすうす感じていましたが、ここまで本格的に警察の厄介になったのも初めてだったので、半信半疑のまま成り行きに任せるしかなかったのです。
     私は、3歳ぐらいの時に父親を亡くし、兄弟もおらず、母親一人に育てられました。父方の親戚は地元宇出津でしたが、行き来もほとんどなく、母方の親戚は、京都方面ばかりで、金沢には一人の親戚もおらず、このあたりも不利に働いたと思います。当時会社以外でつきあいのあった友人は、同郷の二人だけでした。この二人は、福井刑務所を出たときも向かえに来て、そのうちの一人は金沢刑務所を出たときにもきました。どちらも事前の連絡はありませんでした。
     初めから母親には、親切に頼んで費用を工面するので、私選弁護士をつけるように勧められていたのですが、私はお金で自分の罪を軽くするようなことは潔くないと考え、それ以上に彼女の両親に、これ以上悪い印象を与えたくないという配慮からこれを断っていたのです。国選弁護人が付き、一度だけ面会があったのですが、具体的な打ち合わせのようなものはありませんでした。
     控訴審の時は、私も考えを改め、事実を明らかにするのが自分の責任だと考えるようになり、私選弁護人を選任してもらったのですが、これも具体的なやりとりが乏しく、弁護士は私の意見や主張など採用せず、精神鑑定の請求をし、心神喪失もしくは心神耗弱の線で、弁護活動を行いました。上告した最高裁では、東京の弁護士が付き、そちらから事件の関係者の供述調書のコピーが送られてきました。縮小版です。
     それを見て、私は初めて事件の真相らしきものに触れることが出来たのです。そこには普通に生活していたのでは、決して知ることが出来ないような事実が多数含まれていました。
     事実は予め用意されていたのです。会社の連中の共同作業によって、彼女がいかに利用され、翻弄されていたのかも窺い知ることが出来ました。その内容を合理的に解釈する限り、彼女や私の意思というものは、存在しません。予めその存在を消す、つまり殺してしまうことを大前提に、進められていたとしか考えられないような問題が発覚したのです。

  111. 20051218: メールは七百数十件をリストにしたもので、石川県内の会社、個人、役場などの行政機関、新聞社、テレビ局などで、告発の相手方である市場急配センター、金沢市場輸送を含め、石川県警察本部、警察庁を加え、今年の春ぐらいには、多数の国会議員の先生方を多数指定しました。
  112. 20051218: この件につきましては、市場急配センターや金沢市場輸送の組織犯罪の可能性を意識し始めた時点で、私はすぐに法務大臣に情願書を送り、徹底した調査と調査団の派遣を要請しました。まだ、福井刑務所に行く前のことで、平成5年頃の話です。当時の法務大臣は強硬で知られた後藤田法務大臣でした。警察官僚の出身だったような記憶もやや曖昧ですが残っています。
  113. 20051206: 高校を卒業して、安田敏は同じ中央市場にあるウロコ水産に就職し、Tさんは金沢市場輸送で4トン車で長距離の仕事をしていたと聞きます。
  114. 20051206: 昭和61年の11,2月頃から62年の1月頃に掛け、金沢市場輸送で一緒にミールの仕事をしていたTさんは、平成元年の1月頃、松波の岸壁で自殺をしました。彼は、安田敏の水産高校のクラスメートでもあったはずです。
  115. 20051206: 昭和61年の終わりか、62年の初め頃、金沢市場輸送の事務所で、竹沢俊寿と話をし、別れて帰る姿を見たのは、その人でした。
  116. 20051206: これも平成2年から平成3年頃に聞いた話で、話をしたのは金沢市場輸送の同じ大型運転手で、口取修という男です。今回は、簡単に説明しておきます。
  117. 20051206: もともと金沢市場輸送で日通カラーの平ボディ車に乗務し、日通のローカル(地場)仕事をやっていたのです。日通とは日本通運のことです。現在のことは知りませんが、その当時は、日本最大の運送会社と聞いていました。大手ですが、下請けを沢山使っているようでした。金沢市場輸送もその下請けの仕事をしていたのですが、竹沢俊寿が以前、日通で働いていたような話も仄聞したことがありました。
  118. 20051206: イワシの運搬をやっていたのは、金沢市場輸送のトラックがメインでしたが、仕事自体は、税金対策らしく、市場急配センターからの請け負いというかたちになっていたのです。
  119. 20051206: 独立分離してからも、しばらくの間は金沢市場輸送の事務所に間借りをするようなかたちで以前通りに仕事をし、同じ会社のようなものでした。
  120. 20051206: その後、その中町さんの紹介で、浜口卓也が同じく持ち込みの仕事をするようになりました。この頃には、すでに金沢市場輸送から独立して、市場急配センターという会社になっていたかもしれません。
  121. 20051206: まず7月の初めぐらいに金沢市場輸送の事務所が移転になり、9月の初めぐらいに松平日出男が来ました。それからまもなくカワムラさんと相棒のカーボこと中町和也さんが、2トン車で仕事をするようになったのです。
  122. 20051206: その松平日出男が金沢市場輸送に来たのは、確か金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町リの一番地のテナントから、現在の場所に移って間もない頃でした。これは昭和63年のように思います。

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