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告発状作成中

2021年2月11日木曜日

「大網健二」を過去のはてなダイアリーの記事から検索

  1. 20090707:とりわけ、障害となって行く手を阻んだのが、同郷宇出津の幼なじみでもある大網健二、大網周一の兄弟と加田義満でしたが、単なる協力者という可能性と同時に、むしろ主体的な犯行実行者であった可能性があります。警察、検察は少なくとも形式上、私個人の事件として問題を片付けたので、私自身真相に迫ることは出来ませんでした。警察、検察が決め手となるような事実を掴んでいる可能性も否定できませんが、社会や市民の理解が先決と言うことで、今のところ放置しているのかもしれません。
  2. 20080624: 初めから挑発的な厳しい態度でしたが、「友達を連れて来い、こちらも人を頼むので、一緒に話しをしよう」と持ちかけられました。私は、即座に断りました。具体的な名前は挙げていませんでしたが、私の友達というのは、大網健二と加田義満以外にはありませんでした。
  3. 20080624: これも、私の思い込みだとなじる人は少なくないように思われます。大網健二や加田義満も、そのように私の希望的な観測を悉く否定してきたし、事実そのものの持つ意味も否定していました。
  4. 20080316: 大網健二ははじめ西宅建のほうによく出入りしていたが、その後、エヌ・ケー興産株式会社を中心にして、自分を巻き込んでいった。
  5. 20080316: 金沢刑務所に入ることになった原因については、まだそれほど詳しく書いていないと思いますが、被告訴人大網健二の仕掛けてきた罠に、協力者がいて、親子で私に対して美人局のような振る舞いがありました。このような協力者の行動を阻止するためにも、私はこのようにネット上で具体的な事実の情報公開を行ってきました。
  6. 20070326: 一緒に仕事を始めて一月か、一月もしないうちに、アパートを借りることになり、大網健二の都合による申し出で、家賃は折半するものの、名義はすべて私の名前ですることにしたはずです。
  7. 20070326: それまで住んでいた東力のアパートというのは昭和59年の春に、大網健二と共同で借りたものでした。私はその年の1月に金沢市場輸送に入社し、それまではほとんど友人の所を泊まり歩くか、トラックの中で寝泊まりする生活をしていたのです。詳しい経緯ははっきりと思い出せませんが、その春頃に私の紹介で大網健二も金沢市場輸送に入社し、同じく4トン車の長距離輸送の仕事をしていました。
  8. 20070326: 一度は、会社に顔を出したように思うのですが、それからすぐに入居予定のマンションに買ってきた日用品を置いてきたのです。そのワンルームマンションに入ったのは、それが2,3回目だったと思いますが、じっくりとなかを見たのはその時が初めてで、当日の4月1日から正式に入居した契約で、電気などもその日から使えるようになっていたはずです。当時はまだ珍しかったはずのオール電化の新築マンションで、確か5階だったと思います。4月の5日ぐらいには、大網健二や加田義満が手伝ってくれ東力のアパートから荷物を運び、引っ越す予定になっていました。
  9. 20070305:(10)大網健二
  10. 20061112: その時大網健二は、検察の名前を出すと、思いの丈を込めた唸るような口調で、検察に対する憎しみや不快感を露わにしていました。また、突如攻撃的な態度に豹変した直後には、「お前、俺らの弁護士費用を払えるのか?」と畳みかけるように問い掛け、「録音しているのか、録音しろ」とも繰り返していました。
  11. 20061112: 大網健二に対しても敵なのか味方なのか、判断に苦しむ時期が長くあり、いろいろなことがありました。最終的には、ネットでの実名公開を経たうえで、被告発人、被告訴人に加えるという決断に至りましたが、2004年8月21日の夜に、一度電話連絡があったもののその後連絡は途絶えており、なんら反論を示してはいません。
  12. 20061112: 初めの話しでは、月々最低20万円は要るな、という甘言から持ちかけられた話で、私がその話の乗り、そのNテックの仕事を始めた直後には、それまで10年ほど務め、営業課長にまでなっていた本陣不動産株式会社を突如退社するというほどの大網健二の入れ込みようだったのです。
  13. 20061112: これは平成11年2月頃、Nテックという大網兄弟が画策した罠にはめられたとき、大網健二から給料の完全歩合の条件を突きつけられると同時に、金沢駅近くの雑居ビルでサラ金の自動支払機からカードで引き出した15万円を直接手渡され、借金にされたという経緯による支払いです。
  14. 20061112: また、私が金沢刑務所にいる間には、被告訴人の一人大網健二に15万円の支払いを済ませたとも聞いています。
  15. 20061101: ちなみに、10月2日付の告訴状をこのブログでも公開してありますが、仕事先まで公開してみろ、というようなコメントがついていました。あれは、大網健二本人である可能性があり、そのあたりも検察か警察は調べて確認していることでしょう。
  16. 20061101: 直接私に向けた発言ではありませんでしたが、その場にいたのは大網健二と三人ぐらいで、私に対して聞かせていたことは明白だと思います。
  17. 20061016: 初めから挑発的な厳しい態度でしたが、「友達を連れて来い、こちらも人を頼むので、一緒に話しをしよう」と持ちかけられました。私は、即座に断りました。具体的な名前は挙げていませんでしたが、私の友達というのは、大網健二と加田義満以外にはありませんでした。
  18. 20061016: これも、私の思い込みだとなじる人は少なくないように思われます。大網健二や加田義満も、そのように私の希望的な観測を悉く否定してきたし、事実そのものの持つ意味も否定していました。
  19. 20061009: 大網健二の方も、怪しいことを私に仕掛けながら、反応をはぐらかしていると、ますますつけあがり、私の借家の自宅でも、玄関を開けて声も掛けずに勝手に二階の部屋まで上がり込むようになっていました。あるいはそれだけ、後戻りの出来ない焦燥感が、行動を大胆にさせていたのかもしれません。
  20. 20061002: 大網健二本人も、前の電話で、同じようなことを言い、脅迫的に問い質していました。危害を加えるのが目的ですか?
  21. 20061002:大網健二キーワードで、検索サイトから飛んできた人のようです。大網健二の知り合いのようですが、挑発的ですね。
  22. 20061002:http://search.goo.ne.jp/web.jsp?MT=大網健二&type=stick&PT=stick
  23. 20061002: ほかに用意できるものとして、平成3年9月から平成4年2月に掛けた運行記録があり、これは平成9年の3月ぐらいに、電話で松平日出男が、必要がなくなるまで、という条件で貸し出しを了承してくれ、大網健二に引き取りと持ち運びを依頼し、大網周一が宇出津の私の自宅まで直接届けてくれたものです。
  24. 20061002: 彼らは廣野の私生活にも密着し、被告訴人大網健二、被告訴人加田義満らを通じて、廣野の家庭事情を含めた豊富な情報を引き出して蒐集し、臨機応変な対応で効果的な打撃を廣野に加え、人間不信、生活破綻へと導いていった。
  25. 20061002: 大網健二には大網周一という一つ年上の兄がいて、大網周一は浜口卓也と自他共に兄弟分というほどの親密な関係であった。また、この大網兄弟は昭和五九年当時、廣野の紹介で金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしたこともあり、竹沢俊寿、本恒夫とも顔見知りであった。なお、中町も昭和五九年の秋頃からしばらくの期間、金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしていた経歴がある。
  26. 20061002: 被告訴人大網健二は、中町ともカワムラとも親しい間柄であり行き来の付き合いをしており、平成元年頃から金沢市内駅西付近にある本陣不動産株式会社で営業の仕事をしており、副業として車のブローカーもやっていたらしい。
  27. 20061002: 被告訴人竹沢俊寿俊寿は、金沢市場輸送株式会社、市場急配センター株式会社(金沢市駅西本町4丁目2番12号所在)両社の会長であり、両社の実質的経営者であったもの、被告訴人本恒夫は金沢市場輸送の社長、被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長、被告訴人東渡好信、池田宏美、梅野博之は市場急配センターの事務員であったもの、被告訴人、安田繁克、多田敏明、浜口卓也、安田敏は市場急配センターの社員運転手であったものであり、被告訴人、大網健二、大網周一、加田義満は告訴人廣野秀樹の友人関係にあったものである。
  28. 20061002:(10)大網健二
  29. 20060924: 以前書いてあるはずですが、大網健二に紹介された若杉弁護士(元金沢弁護士会会長)も、緊迫した態度で私に臨み、危機を最大限に伝えようとしているように解釈できました。その時も、大網健二は帰路の車のなかで、満足そうな笑みを浮かべ、時折ほくそ笑んでいました。
  30. 20060924: 私の想像ですが、その時点で、大網健二の言動には異常性が窺え、事件との関連についても相当の疑いが掛かり、長期的で慎重な観察が必要と判断されていたのかもしれません。
  31. 20060924: それと際立って印象的だったのが、公判で裁判長が私の精神鑑定を決定したときの、大網健二の喜びようでした。快哉を叫ぶ、ような表情が目に焼き付きました。一度、三人の裁判官が後ろにある扉から姿を消し、10分ほどして戻って、小島裁判長が精神鑑定の決定を宣言したのです。
  32. 20060917: 写真に写っているのは、西宅建の倉庫であり、本年(2006年)3月20日に撮影したものです。となりにあるのが、大網健二がチェリー商事の社長からもらい受けると話していた倉庫です。
  33. 20060917: 大網健二によると、西永はもともと富山県福光市あたりに済んでいたとか、以前は通勤していたそうです。金沢市内示野あたりに、割と規模の大きい材木会社を営業していました。
  34. 20060909: そこまで嫌い、反目していた相手と同じ会社で、仕事が出来ていたとは常識的にも考えにくかったからです。本陣不動産は、本陣住宅、本陣建設などのグループ企業になっていましたが、本陣不動産の規模自体は、大網健二の話を聞く限り、多くても十数人ぐらいの所帯で、アメリカやヨーロッパに社員旅行に行くほどの会社であれば、和というものも重視するはずで、容認放置していたとはこれも考えにくいことでした。
  35. 20060909: 辰男も私に対しては、好意的でした。金沢西警察署にも一度面会に来てくれたことがあり、差し入れも沢山してくれました。軟派な面と、硬派な一面もあり、前者では大網健二とも気が合い、女遊びに明け暮れていましたが、硬派な一面の関係で大網健二と仲違いしたというのも、理解の出来る話でしたが、それにしても大網健二の態度が強硬すぎて、秘密を必死に守ろうとでもしているような不自然さも伝わってきたのです。
  36. 20060909: 昭和59年の夏頃、内堀と再会して、西念のアパートにちょくちょく遊びに行くようになったことは「告訴状(途中)」にも書いてあるはずです。そこで知り合い、のちに大網健二が本陣不動産で働くようになった紹介者が、羽咋郡(当時)富来町出身の奥野辰男でした。
  37. 20060829: 二度目の事件を起こしたのは、被告訴人の大網健二、加田義満、加田義満の工作活動や不当な影響力に因るところが大です。事実上、私は身の危険を感じ警察署に逃げ込んだようなものです。あるいは安藤健次郎の側で、相談していた金沢中警察署の指示に従い、私を保護する目的で意図的に警察署に逮捕させたという可能性もあるかと思います。
  38. 20060827: その頃大網健二は東京に住んでいて、妻となったミキちゃんこと大熊美樹子、睦美、それと堂前美里だったように思うのですが、3人の女の子を事故で修理に出した車のポンコツの代車に乗せ、東京に遊びに行きました。オープン間もない東京ディズニーランドに行ったことなど、前に書いていると思います。
  39. 20060827: 店にいたのも広瀬睦美だけでした。彼女は私の二つ年下で、大網健二の妹らの遊び仲間の一人で、私も昭和58年の夏頃は、毎日のように彼女の家に行き、他の女の子と一緒に車に乗せ、よくドライブをしていました。大網健二は私が彼女と付き合っているとも考えていたようです。
  40. 20060827: 沢山の資格を費用込みで取得させたり、大きな恩義を施していたようです。時には加田義満の方が気の毒になるぐらいで、大網健二にいわせれば気の弱い一面ということになるのかもしれません。おそらくあのような密度の濃い職人の師弟関係というのも、現在は珍しくなっており、理解もしにくくなっているのかもしれません。
  41. 20060827: 加田義満や大網健二らの働き掛けというのも、そんな日常的で細かいことの積み重ねでした。
  42. 20060827: 平成10年の秋頃大網健二が加田設備工業に顔を出すようになったということを書きましたが、その続きを書きたいと思います。私だけではないと思うのですが、人間というのはその場の認識だけでは理解が出来ず、気に留めることもなく過ぎ去るということが往々にしてあるのかもしれません。
  43. 20060826: 書き忘れていましたが、大森朋彦は金沢市場輸送で、福井県内で4トン車を崖下に転落させ、竹沢俊寿に懸賞金をかけられ、また、大網周一と大網健二の兄弟がもっとも残酷な輪姦をした被害の際、大網周一の同調参加の呼びかけを一蹴した人物です。
  44. 20060826: それだけ大網周一らの世間に対する体面がよかったということにもなるかと思います。実際、彼ら自身の努力もあり、大網健二は石川県内でも屈指の不動産会社の営業課長になり、大網周一も10人ほどの従業員を雇う有限会社の社長になっていたのです。
  45. 20060826: そのうち、おじいさんが亡くなって2,3年後ぐらいに大網健二らが「おばちゃん」と呼んでいた家政婦のような事実上の女主人のような人が亡くなり、その家に常時住む人もいなくなり、そのうち引き払ったようです。
  46. 20060826: 大網健二も厳しいと反感を訴えていましたが、むしろ大網健二の方が甘えているという気がしていました。父親の方も大網健二のことは「ケンちゃん」と呼んでいましたが、当時の宇出津ではかなり珍しいことでした。自分のことを僕と呼んだり、パパ、ママと呼ぶ子供など一人もおらず、口に出せばそれこそ死ぬほどの恥辱を与えたれたであろう風潮があった時代です。
  47. 20060826: 大網健二のおじいさんについて私が抱いていたイメージは、ホンダ自動車の創始者である本田宗一郎氏と重なるものでした。松下電器の創始者も今ではそれほど有名ではないのかもしれませんが、当時はいずれもとても有名で、並はずれた偉人そのものだったのです。
  48. 20060826: 盗み癖は、大網健二も大網周一も小学生の頃にあったようです。大網周一はほとんど変わりなく成長していたようですが、中学生の頃の大網健二は勉強にも励み、極真空手に熱い情熱を傾けていました。それは極真空手の全盛期でもあったはずです。ブルースリーというカンフーのスターが一世を風靡した時代でもありました。
  49. 20060826: 私自身、直接耳にすることはなかったのですが、中学生時代の頃も父親が泥棒で逮捕されたような話があり、大網健二自身が話していたところでも、高校一年生のとき金沢市内大和町のアパートで、父親が逮捕され、盗品とは知らずに腕時計をもらっていたということです。
  50. 20060826: それに漁師というのは、仲間意識が強くて結束も固く、自分らを陸の人間と区別する傾向がありました。大網健二などは相当強く反発を感じ、毛嫌いするようなことも口にしていましたが、兄と妹がリーダ的存在であったのと似たような彼特有の僻みも感じられました。
  51. 20060826: 買って別の商売を始めた人は、これも私の幼なじみが息子だったのですが、同級生の娘もいました。大網健二にしてみれば、そのあたりもかなり屈辱であったのかもしれません。わずか数年後にはその家族自体、借金で離散して夜逃げをしたと聞いています。ちょうど200海里問題で宇出津の町も不景気のどん底に陥った頃の話でした。
  52. 20060826: それだけ裕福な家でもあったようですが、一代で築き上げたのは大網健二らのおじいさんでした。大網健二に言わせれば、おじいさんが厳しすぎて親父がおかしくなったという見方でした。父親がギャンブルで作る借金のため、家の一部は売られて別の商売の店が入っていました。あるいはまだ中学生の頃だったかもしれません。
  53. 20060826: もともと当時の宇出津の若者というのは、個性が強くまとまりもよくありませんでした。学年毎の個性も強く、違いが結構あり、二つ年下の妹らの年代はその点まとまりもよく、仲良しグループという印象がありました。どちらかといえば、私も大網健二も一つ年下のグループよりは、二つ年下のグループとよく遊んでいた時期がありました。
  54. 20060826: その上、兄の大網周一も二つ年下の妹も学年の不良グループでは、リーダ的な中心人物で、大きな家もそのたまり場であり、社交場のようにもなっていたのですが、大網健二の方は同級生でもあまり目立つことが出来ず、そのあたりも鬱屈した気持ちに繋がっていたのかもしれません。
  55. 20060826: 男子生徒では他にも一人地元の公立高校の受験に失敗した同級生が同じ金沢高校に行き、他にも一人相撲部の部員で、相撲のスカウトで金沢高校に行った生徒がいました。大網健二以外の二人はそれぞれ事情があって金沢に出たことになりますが、大網健二の場合、より都会的な学生生活を満喫したいとか不純な動機も含まれていたように思います。気位が高かったとも言い換えることが出来そうですが、調子を合わせていれば、親切な一面も多い男でした。
  56. 20060826: 大網健二と大網周一というのは、大網健二が中学生の頃は折り合いが悪く、大網健二の方が大網周一を不良だと軽蔑していました。当時の大網健二は、極真空手に励み、電車で1時間半から2時間はかかった七尾市の極真空手の道場にも通っていました。私自身彼に誘われて、一緒に七尾の道場まで行ったこともありました。
  57. 20060826: 新聞報道では、その周一の存在など眼中にないような振る舞いで、高圧且つ執拗に貸した金の返済を迫り、その挙げ句に殺されてしまったような報道になっています。当然初めから違和感は覚えていましたが、父親のギャンブル癖、借金癖についてもよく知っており、それだけ大網健二、大網周一の兄弟が迷惑を受け、見放したあとの事件という解釈も出来たのです。
  58. 20060826: 少し違っていると感じたのは、平成4年の9月10日頃、金沢市内大場町東の大網健二の自宅で大網周一の結婚祝いの飲み会が催された席でのことで、当時の社員らしき若者の数は3,4人ぐらいと少なかったのですが、極端に大網周一を怖れ、いいなりに従っているように見えたことです。
  59. 20060826: それからすぐに大網健二本人からも事件の話を聞くようになったのですが、彼は父親のしでかした事件にひどく腹を立て、ものすごい迷惑を受け大変な思いをした、今やっと落ち着いた状態になれたが、当時のことは思い出したくもないという感じでした。
  60. 20060826: 私自身、自分で彼女を殴り大怪我を負わせた事実に間違いはなかったので、負い目もあり、理解を得るのも簡単ではないと考えていました。大網健二の父親の問題であるので、なおさら現実は厳しいと心得ていたのです。
  61. 20060826: 私が福井刑務所に入っている間に、二人とも金沢に家を構え、加田義満は独立して商売を初め従業員も雇っていましたし、大網健二も本陣不動産で営業課長になるほど栄達していたのです。私同様高校中退である彼が、その年で課長に抜擢されるにはそれだけの努力もあったものと考えていました。
  62. 20060826: 思いとは裏腹に大網健二や加田義満には、これでもかと言うぐらいひどい反対を受けていました。しかし時折、理解や協力の姿勢を窺わせることもあり、自分の努力不足も感じていたのです。
  63. 20060826: 大網健二が浜口卓也のために動いている可能性はかなり高いと考えていましたが、浜口卓也自身の事件の関与については、それほど深いものとは当時は考えていませんでした。それまでに頭に入っていたデータだけでもより強い嫌疑を抱くべきであったのかもしれないのですが、私は無意識にもそれを避け、矮小化したかたちで捉えようとしていたようです。なにより私は安藤文との再会、結婚を心底望みとらわれていたので、友人は失いたくなく、出来れば協力も得たかったのです。
  64. 20060826: その時の大網健二の雰囲気からもバックアップは口実で、そのデータを私に見せることが目的である公算が高いと考えていました。利益誘導の示唆をしたかたちにもなるかと思います。彼らの意図に乗っていれば、真相の発見も早かったのかもしれませんが、私はそれ以上の危険を感じ、着実に危ない橋を渡らない道を選びました。
  65. 20060826: 確かなことは言えないのですが、平成10年の夏頃であった可能性が高く、日曜日であったと思います。他にも似たようなことはあったのですが、大網健二は日曜日に会社で電話番をすることが多いらしく、車で3分ほどの距離であったこともあり、時間の合間に私の家に来ることがありました。
  66. 20060826: 当時の私は再審請求さえ始まれば、大網健二らも妙な下心を諦め、手出しはするまいと考えていたのです。大網健二が計画を持って動く目的も、当時の私には浜口卓也への協力ぐらいしか動機、目的が想定できていませんでした。後は感情的な問題です。彼はずっと以前より、人の幸福を快く思わず、同情をかけることで満足するような一面があり、同時に親身に世話をしてくれることがありました。
  67. 20060826: 当時すでに阿部穣二氏の小説を読んでいたと思います。拘置所で読んだと思うのですが、小説のなかにはしきりに「絵図を描く」という表現がされていて、大網健二がそれまで姿を見せなかったことや登場すると同時に、私に吹き込むようなかたちで、話を持ち出していたので不自然にも思え、絵図という計画を企んでいるように思えたのです。確かにそれが、布石であったのかもしれません。
  68. 20060826: 三人で居酒屋に行ってしばらくすると同じく夕方に大網健二が事務所に来ていて、事務所を借りて講習会をするような話をしていました。大網健二は抱負を語るように「総合建設業」という言葉を何度も口にしていました。
  69. 20060826: それが「一水」という小料理屋と言いますか小さな居酒屋で、オーナのママは50代後半から60代前半の人で、ちょうど金沢市場輸送の竹沢夫人と似たような年格好でした。大網健二の話によると片町という金沢の繁華街のクラブで働いていて、独立したような話でした。このような話を聞いたのは実際にその店に客として行くようになった翌年(平成11年)1月20日頃のことです。
  70. 20060826: 11月に入ってからだったと思いますが、夕方現場の仕事から戻ると大網健二がいて、加田義満と三人で西金沢駅のすぐ近くにある新築でオープン前の小さな居酒屋に行きました。何かクーラーの取り付けのような話で、見積もりをかねて現場を見に来たような状況だったのですが、大網健二はよくその家の購入者の女の人の話もしていました。
  71. 20060826: この件について、私は再審請求に大網健二が協力してくれたとも解釈していたのです。同時に不信感も根強く持っていたので、コピー機に仕掛けをしてあるのかとも考えたことがあります。少し使うと紙詰まりを起こし使えなくなったので、それ以降使うことはありませんでした。
  72. 20060826: それからしばらくして、事務所の方に2台の業務用のコピー機がおいてあり、加田義満が大網健二がくれた、どちらか選んでお前にもやると言っていた、といわれ、比較的新しめで小さい方のコピー機をもらって帰りました。
  73. 20060826: 簡単な祝いの場で、缶ビールとつまみだけがおかれたような状態でした。この時のことはごく断片的にしか記憶が残っていません。憶えているのは、バッサこと干場茂幸が金沢市内上荒屋あたりに以前大網健二の世話で購入したという住宅について、少し不満を漏らし、大網健二が少し反論を加え、すぐにおさまったという状況でした。
  74. 20060826: 加田義満が自宅の奥隣にある住宅を購入したことはすでに書きました。しばらく姿を見せなかった大網健二が私の前に姿を見せるようになったのもその頃からです。
  75. 20060818: 未明に片町で浜口さんと別れ会社に戻ってトラックの中で寝た私は当日の朝九時半頃に目を覚まし、それから一階控え室で電話を掛けてから十時半頃に大場町913の4の大網健二君宅に訪れました。そして暫くしてから、無理を言って一緒に花を彼女に贈るため花屋さんを探しに武蔵が辻の名鉄丸越に行きましたが、目的の店は見つからず、それから市場輸送の近くのパチンコオークラの横の花屋に行き、そこで赤いバラの花一本800円を10本、24日の夜七時に彼女の泉ヶ丘の自宅に届けてくれるよう手続きして代金を支払いお願いして、それから、中央病院の近くの8号線バイパス沿いの「アンデルセン」というレストランで大網君と二人食事をして、それから、大網君の申し出によりゴルフの練習場に行くことになり、初め宇ノ気の山間部のゴルフ場に行ったのですが都合が悪く、それから、津幡町と森本町の境あたりの8号線に近いゴルフ練習場に入って打ちっぱなしを二時間ぐらいして、それから、大網君の自宅に戻ってその近くに停めてあった自分の車に乗って私は午後五時近くに自宅(東力二丁目28の2)に戻って、それから自宅の斜め前前方50メートルほど先にある中森という床屋に行ってそこで、久しぶりに短く散髪してもらったのです。(髪を短く切ってもらった)
  76. 20060818: 私は安田と一緒に、散乱させた青果物を収拾するなどの事後処理に向かいました。その時、偶然近くに仕事に来ていた大網健二君と現場で出会ったことを覚えております。
  77. 20060818: 加田君の自宅に寄って、一緒に私の軽四に乗って、午後七時頃、大場町東213の4の、大網健二君宅に到着した。すでに、浜口さん、中町さん、麻田さんなど集まっていた。
  78. 20060817: 大網健二は、父親の事件のことでNHKが特番を組むので取材させて欲しいと連絡があったと言っていましたが、いかがなものでしょう。
  79. 20060816: 当時のことも鮮明には思い出せないのですが、意外だったのは大網健二の家の電話番号が登録されていたことです。それ以前、彼は昔の女遊びのとばっちりでも心配していたのか、電話帳に名前を載せることがなかったと記憶していました。
  80. 20060816: 大網健二の方は、平成3年の春頃に、金沢港に近い無量寺あたりのアパートから、富山方面の金沢市内のはずれにもあたる大場町東に小さな中古の住宅を買って引っ越しました。小さな家で、立地条件もよくなかったので、比較的安い買い物のような話で、1千500万円ぐらいと聞いたかもしれません。
  81. 20060816: 同じ黒田でしたが、新しい家は場所の離れた黒田一丁目でした。中古の住宅のようでしたが、割と新しい家で、奥には仕事道具を置く小屋と、ちょっとした庭もありました。その家は、私が福井刑務所にいる頃に求めたらしく、大網健二が世話をしただけでなく、ローンの保証人にもなったと聞きます。当初この話は、大網健二からだけ聞いていました。
  82. 20060816: 秋頃であったように思います。その頃の変化といえば、加田設備工業で新車のワゴン車を購入したこと、これはハイエースだったと思います。そして奥まった隣の民家を購入し、そこを会社事務所にしたことです。これも大網健二の不動産の世話で手に入れような話でした。後日、平成11年の2月頃だったと思うのですが、その民家のもともとの所有者という人の経営する工場に連れて行かれたことがありました。金沢市内高畠あたりにある小さな繊維工場のような会社で、屋根の雨漏りかなにかの相談を受けたらしく、一緒に現状を見に行きました。
  83. 20060815: 加田義満は福井刑務所を出た直後から、大網健二、大網周一の兄弟に同調して、さらに会社の親方として身近な立場から、私が安藤健次郎さんと接触することに強硬な反対をすると同時に、その時々で、理解を示し、やさしく話を聞いてやるような態度もとっていました。
  84. 20060815: 働くことが決まる前、昼間大網健二と加田義満と三人で、金沢市内古府あたり、東京ストア西南部点にも近い、同じ並びの道路沿いのうどん屋で食事をしたこと、働くことが決まる少し前、加田義満は同業者の慰安会で沖縄旅行に行っていたことも覚えています。
  85. 20060815: 小森建設をやめて、半月ほどぶらぶらしていましたが、大網健二の方から加田義満の会社で働かないかと誘われ、この時も大網健二の口利きのようなものがあり、11月の10日頃から加田義満の経営する配管業「加田設備工業」で仕事をするようになりました。
  86. 20060815: 大網健二の口利きもあり、半月から20日ほどすると金沢市内高尾にある「小森建設」で仕事をするようになっていました。19歳から21歳頃まで割と頻繁に付き合いのあった長谷政男という同じ年の男が確か部長をしている会社でした。不注意で仕事中肩を痛めたことや、暗いと言われていたこともあり会社になじめず、10月頃にはやめていました。
  87. 20060815: 福井刑務所を出たのが平成9年1月18日の頃で、同年7月の初めには金沢市の北安江の借家に引っ越し、生活するようになりました。この借家の手配をしてくれたのも不動産の仕事をしていた大網健二でした。
  88. 20060814: 今回中心的に記載するのは、先に触れた「その後の侵害、妨害工作」に当たる部分であり、被告訴人のうちの大網健二、大網周一の兄弟、そして加田義満の関与に焦点を当てることになります。この三名につきましては、犯罪計画に当初から加わり事情を知って関与していた疑いと、事後的に協力要請及び利益供与を受け、積極的に関与した事後共犯もしくは幇助犯の疑いがあります。
  89. 20060812: 大網健二は2004年8月21日の電話のとき、電話のあったことを明日金沢地方検察庁に電話をして伝えておく、といったとき、これ以上はないような軽蔑の念を表明する態度を示していました。こんな輩に限って、法律や警察を無闇に利用したがり、思うように行かないと大騒ぎをするようです。手なずけ御しやすい相手かもしれませんが、調子に乗りすぎたことと、他に重大犯罪に関与している疑いでもあるのか、ひときわならぬ別格の扱いを受けることになったようです。
  90. 20060812: とはいえ、そのような困った事情と告訴や再審の必要性は全く別問題です。不当な判決が原因で、満足な就職も出来ず、偏見にも耐え、消極的な生活を余儀なくされてきましたので、それも被害の一部かと考えています。とりわけ、平成11年当時の大網健二らの罠にはめられたことで、メンタル面でも実生活の上でも大きなダメージを負いました。
  91. 20060806: その辺りも酌んで、説得を試みようともしたのですが、既にとりつくしまはなくなっていました。大網健二には不動産購入の世話になったばかりでなく、ローンの保証人にもなってもらったと聞いていました。
  92. 20060806: 大網健二は妻自身が割と交際範囲が広く仲間内の結束も強かったので、情報も得ているはずですが、私に話すようなことはなくなっていました。
  93. 20060806: 私は相撲部で、毎日授業が終わるとすぐに水産高校に行って練習をしていたので、放課後の学校の様子はよく分からないのですが、浜口卓也は確かバスケット部だったと思います。加田義満は剣道部でした。大網健二は卓球部だったと思います。
  94. 20060806: 平成11年の2月頃に大網健二から聞いた話によると、波瀬さんともう一人の誰かが、金沢で土建会社をやっている山本実郎さんのところで働いているとのことでした。
  95. 20060806: 妹の結婚式の頃は配管屋の仕事も順調だったらしく、500万円の祝い金を渡したとも話していました。妹も大網健二の妹の同級生でしたが、遊び仲間ではなかったようです。無口な妹でしたが、たまに兄の部屋に来て、座っているようなこともありました。
  96. 20060806: その後大網健二の車に同乗して、金沢に向かい、金沢には朝方に着いたのかもしれません。この時だったように思うのですが、午前中か昼間に一度だけ金沢市内泉本町か米泉にある大網周一の家を訪問しました。その後、その借家を出て、近くのマンションに住むようになったと聞いていますが、そのマンションには行ったことがありません。
  97. 20060806: 車や住宅のことでも、大網健二がなにかと世話をしていたようです。いわば車と住宅を武器に、大網健二は、繋がりの輪を広め、強めていったようです。この辺りは大網周一とは異なる大網健二のお家芸とも言える持ち味でした。
  98. 20060806: スミオさんは、姫の堂前美里という女の子と付き合うようになり、その後結婚したように聞いております。堂前美里も大網健二の妹の同級生で、大網健二の妻を含めた仲良しの一人でした。
  99. 20060806: 手紙を受け取った同じ日であったかもしれません。私は大網健二に連れられて宇出津の棚木海岸の材木置き場の側にある前田サトシさんの家に行きました。サトシさんは私より4つ以上年上であったと思います。
  100. 20060806: 当時は、大網健二の父親の殺人事件でトラウマになっているのかとも解釈したのですが、大網健二がよからぬことを吹き込んだ可能性の高いように思われます。大網健二は努力して、彼女の家族にも大きな力添えをし、感謝も信頼もひときわ高くされていたようです。
  101. 20060806: 印象的だったのは、平成9年の春頃のことです。大網健二の方から宇出津の崎山にある彼女の実家の方に電話を入れるように、指示を受けました。電話を入れたところ、彼女の母親が出たのですが、まるで被害者家族のような厳しい異様な対応を受けました。
  102. 20060806: 私自身彼女とは親しくしていましたし、大網健二にすれば反撃をかわす盾のような存在でもあったかと思われます。そんなこともあり、私の追求や現実直視の目も緩みがちになり、無意識にも手加減していた面があると思います。
  103. 20060806: 大網健二の妻は大熊美樹子という女の子で、彼女が水産高校の生徒だった昭和57年頃から付き合いを始めたようです。きっかけは大五郎の家に遊びに来ていた彼女を、大網健二が気に入り、交際を申し込んだようです。可愛いと評判の女の子でもありました。
  104. 20060806: ベトはその後、大網兄弟の妹の同級生の遊び友達と付き合うようになり、結婚しました。打越登美子という私の家の近所の女の子です。私の二つ年下でした。大網健二の結婚式のときも長男を連れて参加していました。
  105. 20060806: 宇出津の周辺や珠洲市の周辺にはこのような小さな祭りも沢山あり、大網健二らはよく出掛けて楽しんでいました。ひどいのになると見ず知らずの家に上がり込み、そこの家の息子の知人を装い勝手に飲み食いをしていました。私も何度か同行したことがあるのですが、正直面白いとは思いませんでした。大網健二は至福の喜びを満喫している様子で、傍目にも浮かれすぎで、調子に乗りすぎていると思えていました。
  106. 20060806: そこで、大網健二はバックなしのタイマン(一対一のケンカ勝負。現在では死語かも)を川昭夫に申し入れ、ケンカをしたそうですが、顎の骨を粉砕されるほどの怪我を負ったようです。
  107. 20060806: すべて伝え聞いた話ですが、大網健二はその祭りに行き、川昭夫という同級生らとトラブルになり、相手のグループがバックというかケツ持ちの七尾の暴走族かヤクザの名前を出したそうです。
  108. 20060806: 前回は、平成9年2月頃のことについて書きました。大網健二から手紙を受け取ったときのことですが、47,8枚の手紙には、七尾市(石川県)で暴力団関係者もしていたという東渡好信についての情報を、彼から父親に頼んで集めて欲しいという依頼も含めていました。
  109. 20060806: 大網健二の話に戻します。
  110. 20060806: その平成9年の2月頃のことです。たぶん土曜日の夜だったと思います。金沢に住んでいる大網健二が宇出津に来て、私に手紙を全部手渡してくれました。その手紙は後日全て再審請求の資料として金沢地方裁判所に提出したので、手元にはなく数もはっきりしないのですが、だいたい50通ぐらいはあったかと思います。
  111. 20060806: 頻繁に面会に来てくれたのは大網健二ぐらいで、手紙を受けることも1,2回はあったと思います。私の方からは、控訴審の私撰弁護士となった木梨松嗣弁護士以上に頻繁に手紙を送っていました。事件について理解と協力を求めていたのです。
  112. 20060805: 再会したのは平成2年頃の、大網健二の結婚式のとき、その時東京でヤクザをやっていると聞き、いかにもそれらしい人物になっていた。前回会ったときの面影は全く感じられず、別人のようにも思えた。2次会となった金沢市の繁華街片町のスクランブル交差点の側のおでん屋で、私はコウジという人物に、ビール瓶を振りかざされ、頭を殴らそうになったが、それを止めたのが浜口卓也だった。
  113. 20060805: その人物は、能都町(現在能登町)姫の出身で、大目(おおめ)という人物。昭和58年の春頃、私は大網自動車、大網プロパンの慰安旅行に同行した。一台のワゴン車で東京に行った。7,8人ぐらいで。その時の、宿泊先が大目という人のマンションだったらしい。後日、大網健二からそのような説明を受けた。
  114. 20060728: この本は現在も手元になるので、近々デジカメの写真を公開しておく予定でいます。この本の差し入れをしてくれたのも大網健二でした。彼は面会にもよく来てくれ、なにかと世話を焼いてくれていたのです。
  115. 20060726: その再審請求は、その年の2月26日頃に棄却されていました。ちょうど大網健二の罠にはめられたNテックの問題から切り抜けることが出来た直後で、建設・建築関係の派遣の仕事を始めた頃でした。
  116. 20060726: 安藤さんの指す友達が、大網健二と加田義満以外にいないことも承知していました。しかし、安藤さんとの情報連絡自体が途絶えており、現状を伝えるすべもなくなっていたのです。
  117. 20060724: 大網健二は、その後大阪で少しやっていたとも言っていましたが、詳しいことは知りません。
  118. 20060724: 私は昭和59年の1月から10月まで金沢市場輸送にいました。やめてまもなく、中町さんも入って4トン車の長距離の仕事をしていたようです。同じく、大網健二は4月ぐらいから7月頃まで。大網周一は6月ぐらいから、私がやめる一月前後ぐらいまでいたようです。
  119. 20060724: 大網健二、大網周一の兄弟、加田義満の三人と市場急配センターの関係について、疑問があるようですので、少し書いておきます。これまでの告発状などの資料を見れば、書いてあることですが、全部読むのも大変かと思いますので、簡単にまとめておきます。
  120. 20051218: 若杉幸平 金沢弁護士会所属 弁護士会会長の経歴あり、大網健二の紹介
  121. 20051215: 未明に片町で浜口さんと別れ会社に戻ってトラックの中で寝た私は当日の朝九時半頃に目を覚まし、それから一階控え室で電話を掛けてから十時半頃に大場町913の4の大網健二君宅に訪れました。そして暫くしてから、無理を言って一緒に花を彼女に贈るため花屋さんを探しに武蔵が辻の名鉄丸越に行きましたが、目的の店は見つからず、それから市場輸送の近くのパチンコオークラの横の花屋に行き、そこで赤いバラの花一本800円を10本、24日の夜七時に彼女の泉ヶ丘の自宅に届けてくれるよう手続きして代金を支払いお願いして、それから、中央病院の近くの8号線バイパス沿いの「アンデルセン」というレストランで大網君と二人食事をして、それから、大網君の申し出によりゴルフの練習場に行くことになり、初め宇ノ気の山間部のゴルフ場に行ったのですが都合が悪く、それから、津幡町と森本町の境あたりの8号線に近いゴルフ練習場に入って打ちっぱなしを二時間ぐらいして、それから、大網君の自宅に戻ってその近くに停めてあった自分の車に乗って私は午後五時近くに自宅(東力二丁目28の2)に戻って、それから自宅の斜め前前方50メートルほど先にある中森という床屋に行ってそこで、久しぶりに短く散髪してもらったのです。(髪を短く切ってもらった)
  122. 20051215: 私は安田と一緒に、散乱させた青果物を収拾するなどの事後処理に向かいました。その時、偶然近くに仕事に来ていた大網健二君と現場で出会ったことを覚えております。
  123. 20051215: 加田君の自宅に寄って、一緒に私の軽四に乗って、午後七時頃、大場町東213の4の、大網健二君宅に到着した。すでに、浜口さん、中町さん、麻田さんなど集まっていた。
  124. 20051206: 平成3年9月20日頃、金沢市内大場町東の大網健二の家で、大網周一の結婚祝いの飲み会があったのですが、その場には、その女の人もいて、彼氏という男の姿もありました。おそらくは同一人物だと思われるのですが、再婚したそうです。あるいは既に再婚していたのかもしれません。
  125. 20051206: 大網健二にせよ、私は長い間、敵なのか味方なのか判断にずいぶんと迷ってきました。期待していたのは、味方であることでした。今回は、詳しく述べませんが、敵であるらしいという確証を得るようになったのは、ネットワークでの活動を初めてからのことです。
  126. 20051206: 大網健二はカワムラさんともかねてからの知り合いで、親しくしていたようですが、中町さんとも付き合いをしていたようでした。中町さんは私が16歳の頃から知っていて、友人のグループを通じてよく一緒に遊ぶ機会があり、よく知っていました。
  127. 20051206: 大網健二に心配そうに相談していましたが、中小企業向けの行政サービスに関するような問題であったと思います。
  128. 20051206: その後、平成11年の2月頃、大網健二の指示で一緒に金沢の市役所に行ったとき、そのカワムラという人に会いました。市役所の駐車場ではベンツが停めれないので、県庁の方に停めた方がよいなどと大網健二が事前の電話で話をしていたことも覚えています。
  129. 20051206: 大網健二はすべて台本通りのような感じで、協力的に手際よく手配をしてくれました。初めに引っ越しで借家に荷物を運び込んだときも、ゴキブリが出ると、コンビニに行って、いわゆるゴキブリほいほいのようなものやスプレー式のものなど複数の種類を一度に4,5個ほど買ってきました。パンや飲み物も買ってきましたが、ある程度片づくと早々に帰ってゆきました。
  130. 20051206: 気になったのは、初めに大網健二とその物件を見に行ったとき、一階の家族が中心的に使うような部屋の窓のサッシの鍵が開けたままになっていたことです。鍵というのは正確ではないかも知れないのですが、よくある窓が開かないようにする部分です。
  131. 20051206: 借家を探してくれたのも大網健二でした。何も言わずに借家の保証人にもなってくれていました。他にも何件か物件を見て回ったのですが、割と条件もよい北安江の借家に決めたのです。

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