ああ33

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2021年2月11日木曜日

「浜口卓也」を過去のはてなダイアリーの記事から検索

  1. 20071222:`-- 浜口卓也_4月12日.txt
  2. 20071222:-rw-r--r-- 1 root root 4.7K 12月 22 23:56 浜口卓也_4月12日.txt
  3. 20070326: 一見すると関与が薄いように見える浜口卓也も供述調書のなかで、事件の原因として、安田繁克と安藤文さんの過去の交際について指摘していますが、そんな交際などもとより存在しなかった公算が高く、安田繁克の供述調書をみれば、明らかに事実を歪めたすり替えが敢然と行われています。
  4. 20070326: いずれにせよ、安田敏と一緒に目的地に向かうようなことはありませんでした。少し憶えているのは、数日後、浜口卓也がなぜ一緒に行こうと誘ってくれなかったのかと、不満そうなことを言っていたことです。浜口卓也も名古屋方面の月曜日降ろしの荷物を積んでいたものと考えられますが、私はそんなことを知らず、浜口卓也に少し咎めるようなことを言われ、意外に感じたこともかすかに印象に残っています。
  5. 20070326: 社会に出てから、浜口卓也には普通の同級生みたいに話しをしろとも言われていましたが、昔に近い言葉遣いなどしていたので、そのあたりが梅野博之には卑屈に見えたのかもしれませんが、上下関係については刷り込まれるような教育を生徒の間で受けていたのです。個人的に親しくなって、普通に話せと言われても、いまさら変節するような態度を取る気にはなれませんでした。
  6. 20070326: 宴会が終わった時間から考えて、浜口卓也らとスナックに行っていたという時間は、ごく短かったようです。その日は、私自身が暗く落ち込んでいたこともあってか、声を掛けられることも少なく、どこかに誘われるようなこともありませんでした。
  7. 20070326: その場で、浜口卓也のおごりで近くのスナックに行き、安藤文さんも一緒だったとは聞いていました。人数もだいたいそんなものだったと思います。
  8. 20070326: また、5~6人でスナックに飲みに行ったことになっていますが、安田敏がいるはずもなく、私自身、梅野博之が言うように浜口卓也らと一緒にスナックには行っていないのです。
  9. 20070326: 先にも書いたとおり、連休に入る夜に松平日出男らの供述調書に目を通しました。その10日ほど前には、浜口卓也の供述調書も読んだのですが、安田繁克の供述調書はしばらく目を通していません。
  10. 20070326: 検察官から初めて具体的な指摘を得たこともあり、今回の告訴は梅野博之、池田宏美、安田繁克、多田敏明、松平日出男、浜口卓也、安田敏の7名に絞って行いたいと思います。
  11. 20070326: 私自身金沢市場輸送にいた頃、小林運送の社長に、事務所に連れ込まれたこともあり、助手を始めた少年時代には、「お前は、今日から家畜や」と言われたことがありました。どこぞのうどん屋に殴り込みをかけたとか、そんな荒っぽい話しもずいぶん聞く、そんな社風の運送会社でしたが、市場急配センターが小林運送の仕事を始めたと聞く、少し前ぐらいに、浜口卓也が小林運送の運転手をどこかに連れ込み、こづいて脅したか、ケンカを売ったような話しも聞いていました。東渡らの話しで、彼らも小林運送をへこますような勇ましいことを言っていました。
  12. 20070326:(12)浜口卓也
  13. 20070305: 今回、重点的に詳しく書きたいのは、平成4年1月21日のことです。安藤文本人から話しが聞けない以上、私個人の推量になる部分も多々あるかと思いますが、内容の正確性については十分な自信を持っていますし、それが安藤文の本心であると同時に、真意を汲み取り、信じ切ることが出来なかった、私自身の、言い訳と事情についても書いておきたいと思います。とにかく、この当日は、4月1日の事件当日に次ぐ、大きな分岐点のような一日で、真相の大きな鍵を握る被告訴人の一人、浜口卓也とも密接に関わっています。
  14. 20070305: その弁当の件は、梅野博之も供述しており供述調書に記載してありますが、事実であったのかはまったく不明であり、浜口卓也自身も供述調書では、歯切れの悪い曖昧な言い方をしているという印象がありますし、恋愛観に関しては私自身の考えとまったく異なるものを実際に存在しない会話として供述しています。
  15. 20070305: 私の方から相談を切り出したとき、浜口卓也は、安藤文さんが安田繁克と付き合っていたとき毎日弁当を作ってきていたと言い、その点は見上げたものだとずいぶん高く評価していましたが、開口一番は、「鬼のような女やな、お前、あの女の顔見て普通の女じゃないってが、わからんか? きっかん顔しとるやろい」と決めつけたように切り出しました。
  16. 20070305: 先にも述べたとおり、日産ディーゼルの打ち合わせがあった時点で、安藤文さんと私が恋愛関係にあり、また安藤文さんの真意も十分に認識していたはずですが、それより前の、平成3年12月21日の夜の時点で、そんなことはよくわかっているような様子でした。その夜、私は安藤文さんの目の前でトラックから投げ捨てたクリスマスプレゼントを拾いに行き、そのまま浜口卓也の自宅アパートを訪問しました。
  17. 20070305:浜口卓也について
  18. 20070305: 私が市場急配センターで仕事をするようになった直後から、自ら私に対して接触を図ることがあり、梅野博之同様表面的には好意的でした。安藤文さんと交際していたことがあると初めて聞かされたのは平成4年1月21日の夜、浜口卓也がその口火を切りました。
  19. 20070305: それまで事務所に台所から消えていたコーヒーメーカが現れたのも当日の朝だったと思います。また、そのコーヒーメーカが姿を消したのは、1月の10日頃、日産ディーゼルとの新車購入の打ち合わせをしていた浜口卓也が、私の背中を押して彼女のいる台所に押しやった直後でした。その直前、台所にコーヒーがあるのを見た私が、誰ともなしに、「このコーヒー飲んでいいがぁ?」と声を掛けたところ。机に座って仕事をしていた安藤文さんが、誰もが振り返るような思いを込めた大きな声で、「うん」と返事をし、すぐに仕事の手を止めて、台所に駆けつけ、洗い物を始めた直後のことでした。
  20. 20070305: そのあたりの事情は、いわば集大成というかたちで、池田宏美、梅野博之、松平日出男、安田敏、安田繁克、浜口卓也、多田敏明らの金沢西警察署で作成された供述調書の内容に現れているところです。
  21. 20070305:(12)浜口卓也
  22. 20061009: 父親が出たのは2回だけでした。初めて出たのは1月21日の夜、浜口卓也のアパートから掛けた電話で、とても丁寧な対応で不在であることを告げ、「私も今もどったところなので、よく分かりません」などと言っていました。余りに丁重すぎて卑屈とも受け取れるような対応だったので、母親や娘に頭の上がらない、大人しい父親というイメージが出来ました。
  23. 20061008:浜口卓也
  24. 20061008:氏名 浜口卓也
  25. 20061008:*1160317801*[参考資料]浜口卓也の平成四年四月一二日付供述調書
  26. 20061005:浜口卓也君
  27. 20061005:浜口卓也や
  28. 20061005:浜口卓也や安田敏
  29. 20061002: 平成4年、金沢西警察署において作成された松平日出男、梅野博之、池田宏美、浜口卓也、多田敏明、安田繁克、安田敏の各供述調書も、御庁において保管されている可能性が高いと考えますが、私の方でも写しを持っているので、必要があればご連絡願います。
  30. 20061002: 安藤文が人並み外れて気が強く、強情な性格であることは、多田敏明や安田敏、浜口卓也からも強く印象づけられていた。
  31. 20061002: 安藤文と安田繁克の関係は、作り上げられた虚偽であった可能性が高く、合理性を欠いているが、梅野博之も同じく金沢西警察署で作成された自身の供述調書で具体的な関係の事実を述べている。そこにある「安藤文の手作り弁当」の話しは、まず浜口卓也の口から聞いたものだが、浜口卓也自身は供述調書において、そのことに触れていないばかりか、安藤文と安田繁克の関係自体、はっきり知らないような曖昧な説明をしている。
  32. 20061002: 続けて、浜口卓也の口からこのときはじめて、安藤文が被告訴人安田繁克と交際していたという事実を知らされた。
  33. 20061002: その上で、臨んだ二一日の会見だったが、安藤文との関係はここでも大幅に悪化してしまった。被告訴人梅野博之や池田宏美らの不当な介入、妨害がここでも功を奏した可能性が高く、致命的なぐらいに二人の関係は悪化したが、そのあと、浜口卓也に招かれ、彼のアパートに行き、安藤文のことで相談に乗ってもらったが、「鬼のような女やな、お前あの女の顔見て、普通の女じゃないってわからんか、きっかんかおしとるやろぃ」などといわれ、ますます彼女に対する理解が困難になり、不信感も増大した。
  34. 20061002: 大網健二には大網周一という一つ年上の兄がいて、大網周一は浜口卓也と自他共に兄弟分というほどの親密な関係であった。また、この大網兄弟は昭和五九年当時、廣野の紹介で金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしたこともあり、竹沢俊寿、本恒夫とも顔見知りであった。なお、中町も昭和五九年の秋頃からしばらくの期間、金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしていた経歴がある。
  35. 20061002: 被告訴人浜口卓也もその一人であり、平成二年の七月ぐらいに能都町姫出身の中町和也の紹介で、同じく持ち込み運転手をするようになった。中町はカワムラという宇出津出身の人物とともに、松平日出男が金沢市場輸送に市内配達部門の責任者として就任した直後からお供のようなかたちで参加し市内配達部門の持ち込み運転手をしていた。
  36. 20061002: 被告訴人竹沢俊寿俊寿は、金沢市場輸送株式会社、市場急配センター株式会社(金沢市駅西本町4丁目2番12号所在)両社の会長であり、両社の実質的経営者であったもの、被告訴人本恒夫は金沢市場輸送の社長、被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長、被告訴人東渡好信、池田宏美、梅野博之は市場急配センターの事務員であったもの、被告訴人、安田繁克、多田敏明、浜口卓也、安田敏は市場急配センターの社員運転手であったものであり、被告訴人、大網健二、大網周一、加田義満は告訴人廣野秀樹の友人関係にあったものである。
  37. 20061002:(12)浜口卓也
  38. 20060909: 吉村哲は安田敏とも私のアパートで知り合い、加田義満とも知り合っていました。個人的な付き合いは確認しておらず、あまり馬があったとも考えにくいのですが、吉村哲と浜口卓也も一緒に飲むことがあると聞いたような憶えがあり、どちらも野心的だったので、馬が合い気があった可能性はあると思えます。
  39. 20060909: また、古い資料には書いてあるかと思いますが、その時、高田醤油店の前ので浜口卓也らしき姿も見かけたのですが、彼は視線を外し、気が付かないようなふりをしていて、これも明らかに不自然、異様に見えました。6,7人ぐらいの座った輪のなかに彼がいて、たまたま私の方に顔を会わす方向に向いていたのですが、私の方も合図を送りながら、キリコという祭りの山車のようなものを担いでいた状態で、そのまま通り過ぎてしまいました。
  40. 20060909: 芝西さんは浜口卓也と同級生で、同じ能都町間脇に家がありました。大網周一とも一時期、1年ほど親密に交際していました。周一の特長のひとつですが、このように濃密な関係がある程度の期間続くのですが、そのうち離れることが多く、例外的に長い付き合いの続いていたのがバッサこと干場茂幸でした。「告訴状(途中)」では書き忘れましたが、平成14年の宇出津のあばれ祭りの時、バッサは、私に何度も「あんちゃん、頭なっとないか?」と繰り返していました。酔いながら冗談のようにも話していたのですが、安藤健次郎の事件のことなどを指していたはずです。大網兄弟からよほどのことを吹き込まれているという印象もありましたが、聞きただすことはなく、調子を合わせて馬鹿なことを言い合っていました。
  41. 20060826: 大網健二が浜口卓也のために動いている可能性はかなり高いと考えていましたが、浜口卓也自身の事件の関与については、それほど深いものとは当時は考えていませんでした。それまでに頭に入っていたデータだけでもより強い嫌疑を抱くべきであったのかもしれないのですが、私は無意識にもそれを避け、矮小化したかたちで捉えようとしていたようです。なにより私は安藤文との再会、結婚を心底望みとらわれていたので、友人は失いたくなく、出来れば協力も得たかったのです。
  42. 20060826: 平成4年当時浜口卓也はアパート住まいで数年の間によくこれだけの頭金を貯めることが出来たものだと不思議に思っていました。
  43. 20060826: 当時の私は再審請求さえ始まれば、大網健二らも妙な下心を諦め、手出しはするまいと考えていたのです。大網健二が計画を持って動く目的も、当時の私には浜口卓也への協力ぐらいしか動機、目的が想定できていませんでした。後は感情的な問題です。彼はずっと以前より、人の幸福を快く思わず、同情をかけることで満足するような一面があり、同時に親身に世話をしてくれることがありました。
  44. 20060815: 浜口卓也は同じ運転手ではなく、すでに配車係の立場で、ほとんどは事務所にいたものと想像されます。であれば、面識が少なく忘れていたというのはますます不自然に思えました。
  45. 20060815: そのあと急に思い出したような返事をしていましたが、そのあとの浜口卓也に関する思い出話に臨場感があり、つい1,2年前のことを忘れていたとも考えにくく、不自然に感じていました。
  46. 20060815: なにか浜口卓也が原因で、居づらくなってやめたような口惜しそうな言い方をしていたのですが、不信に感じたのは、初めに市場急配センターの話をしたとき、浜口卓也の名前を出しても思い出せないような知らないような、返事に困っているような様子でしばらく考え込んでいたことです。
  47. 20060815: この松元組は以前浜口卓也が所属していたのと同じ暴力団です。私自身18歳の昭和58年の春頃、その暴力団事務所のなかに入ったこともありました。
  48. 20060806: 岩本さんも遠洋の漁師をしていて、浜口卓也とも中町さんとも親しい交際をしていたようです。加田義満の関与の度合い、内容は判然としませんが、そのような人間関係で頼まれると断りにくい事情もあったのかと思います。
  49. 20060806: その一,二年後の夏にも、浜口卓也は友人数人と輪島の祭りに行き、「輪島がなんぼのもんじゃい!」と啖呵を切ったところ、左右にいた友人が一斉にいなくなり、一人だけぼこぼこに殴られ、バットでも殴られたと聞きました。こちらも持木病院にしばらく入院していたようです。この時も一度は面会に行った覚えがあるのですが、あるいは実郎さんの時とどちらか一回だけだったのかもしれません。
  50. 20060806: そういえば、昭和五九年の夏頃でしたか、宇出津のあばれ祭りでは、御輿を海や川に投げ込み、地面に叩きつけてぶっ壊し、火のなかに放り込んで丸焼けにするのですが、御輿の担ぎ手は各町内から選ばれた者しか参加できず、浜口卓也が酔っぱらって、その御輿にちょっかいを出して絡み、山本実郎さんに投げ飛ばされて怪我をして、しばらく宇出津の持木病院に入院していたことがありました。私も一度面会に行った覚えがあります。
  51. 20060806: 浜口卓也は高校を退学になると、しばらくして金沢に出て、現在の金沢中警察署がある本多町辺りのガソリンスタンドで働いていたと聞いています。
  52. 20060806: 同級生の松波の家で、集まり大人数で喫煙や飲酒をしていたそうですが、その家の生徒が浜口卓也の名前まで先生に出したことで、浜口卓也はその後数年間に渡り、その同級生の生徒を深く恨み、事ある毎に憤懣やるかたなく、その生徒に仕返しをしてやるようなことを口にしていたようです。私自身も会う回数は少なかったのですが、その都度、その話を聞かされていた覚えがあります。
  53. 20060806: 浜口卓也は、私や加田義満と同じ、水産高校小木分校に入学していたのですが、私たちが高一の五月頃、内浦町松波の赤崎海岸辺りに全校で遠足に行き、一,二年生の大半の男子生徒が摘発されるという、喫煙と飲酒の問題に連座し、謹慎四回目かでリーチの掛かっていた彼は、学業にも勤しみ励んでいたのが、不本意ながら退学にされてしまったそうです。
  54. 20060806: 浜口卓也にしてみれば、生涯忘れることが出来ない屈辱でもあったかと思われます。
  55. 20060806: 私は相撲部で、毎日授業が終わるとすぐに水産高校に行って練習をしていたので、放課後の学校の様子はよく分からないのですが、浜口卓也は確かバスケット部だったと思います。加田義満は剣道部でした。大網健二は卓球部だったと思います。
  56. 20060806: その加田義満が、中学校一年生か二年生のとき、一つ年下である私の同級生をいじめていた浜口卓也を、もう一人のより粗暴な男と二人で、痛めつけたのかわかりませんが、体育館の生徒の面前で土下座をして謝らせたという話がありました。
  57. 20060806: はっきり憶えていないのですが、もう一人が間脇の浜口卓也の同級生でもある芝西さんであったかもしれません。芝西さんは、昭和58年頃から大網周一と頻繁に遊ぶようになっていました。彼は私の家の横にある藤田運送の娘と長い間交際していて、その後結婚したような話も聞いたかもしれません。藤田明美という名前だったと思います。彼女も大網周一の同級生でした。
  58. 20060806: バッサこと干場茂幸もその一人でした。彼も同じ頃から遠洋漁船に乗るようになり、浜口卓也とも親しくしていましたが、大網周一とも付き合いが深く、その後大網商事でナンバー2と言われるような立場になっていました。平成11年頃のことです。
  59. 20060806: 大五郎は私より二つ年上で、水産高校の安田敏の同級生でもあります。彼も家も大きなたまり場になっていました。浜口卓也も中町和也もよく出入りをしていました。昭和59年あたりから大五郎も小木か姫の遠洋漁船に乗るようになり、浜口卓也ら漁師仲間との付き合いが多くなったようです。
  60. 20060805: 再会したのは平成2年頃の、大網健二の結婚式のとき、その時東京でヤクザをやっていると聞き、いかにもそれらしい人物になっていた。前回会ったときの面影は全く感じられず、別人のようにも思えた。2次会となった金沢市の繁華街片町のスクランブル交差点の側のおでん屋で、私はコウジという人物に、ビール瓶を振りかざされ、頭を殴らそうになったが、それを止めたのが浜口卓也だった。
  61. 20060724: この辺りも警察、検察は事件性として重視したのかもしれませんが、私はその後、金沢刑務所で浜口卓也の世話をしていたという元暴力団員の人に、1億円以上の保険金が降りたような話を聞きました。真偽のほどは分かりません。
  62. 20060724: 浜口卓也と大網周一というのはヤクザの兄弟分のような関係でした。
  63. 20060724: 浜口卓也以外の三人は、平成3年の1月ぐらいに、もっと条件のよい持ち込みトラックの市内配達の仕事の話があり、そちらに移ったそうですが、竹沢俊寿会長は義理を欠いたなどと少し怒っていたようです。
  64. 20060724: ASAさんの妻ととても親しくしていたKOJという同じ年の女性もいるのですが、平成3年12月21日の夜には、二人の女性の働く飲み屋に、浜口卓也に連れて行かれたということもありました。このあたりの具体的な話も、これまでの告発状などの資料のなかには書いてあるかと思います。
  65. 20060724: さらに一年ぐらいして、浜口卓也も加わり、同じ持ち込みの仕事をするようになったのです。安藤文が入社したのは、平成2年の4月頃のことで、浜口卓也が入ったのは、その年の7月か8月くらいではなかったかと推定されます。
  66. 20051218: 2少年の殺人事件の被疑者は、私の告発事件のひ告発人2名の実の父親であり、浜口卓也とも関係がありました。
  67. 20051206: 平成3年12月21日の夜、浜口卓也に連れられて片町の飲みに行きましたが、そのうちの店の一件が、その女の人が働く店で、もう一人以前からとても仲の良い女性も一緒に働いていました。
  68. 20051206: 私も相撲部に所属していました。能都中学校です。練習はほとんどすべて、石川県立水産高校の相撲部で行っていました。そのため、先輩との面識も広がり、その一人は、市場急配センターで浜口卓也らと仕事をしていたこともあり、カワムラさん、中町さんらと独立した仕事を始めていると聞いていました。安田敏とも付き合いや、面識があるはずです。
  69. 20051206: その後、その中町さんの紹介で、浜口卓也が同じく持ち込みの仕事をするようになりました。この頃には、すでに金沢市場輸送から独立して、市場急配センターという会社になっていたかもしれません。

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H3DB_search_”山口民雄”_(該当件数:53/データベース登録数:669,647) _2024-03-14_102704の記録

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