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告発状作成中

2021年5月5日水曜日

「七尾」を過去のはてなダイアリーの記事から検索

  1. 20090621:[link] 七尾市
  2. 20090621:[link] 七尾市
  3. 20090621:[link] 七尾市
  4. 20090621:[link] 七尾市
  5. 20090621:[link] {=区域="七尾市"}
  6. 20090504:[link]  10年一昔と言いますが、もう25年以上前になりそうです。しかし、七尾から宇出津にかけた海岸線の家並みや風景は、当時とほとんど変わりがなく、不思議にさえ感じることがあります。
  7. 20090504:[link]  個人的には、「冬のリビエラ」という曲が一番印象に残っています。あれは昭和58年の1月か2月頃だったと思います。病院に行くつきあいで、友達4,5人と七尾市まで行ったのですが、現在でも車で七尾市あたりを走っていると、当時のことが、あの曲とともに思い出されます。
  8. 20080519:[link]  4月の初め頃、今枝弁護士の出した本を探しに、七尾のTSUTAYAに行ったとき、サイパンで逮捕された直後の報道に出ていた、「弁護士なんていらない」というようなタイトルの本が、5冊ぐらい棚に並んでいました。
  9. 20080408:[link]  ちょうど、昨日の日曜日、七尾市の書店に立ち寄ったところ、『反転−−闇社会の守護神と呼ばれて』=田中森一・著 、という本がまとめて4、5冊店の棚に並べてあり、ちょっと手に取って、1ページほど読んでみました。
  10. 20080406:[link]  金曜日の夜、久しぶりに宇出津に帰り、先ほど戻ったところです。と言っても、実家を出たのは15時ぐらいで、それから穴水の書店で、今枝弁護士の本を探し、となりの100満ボルトでパソコンを見て、遠回りですが、七尾市を経由して、書店を2件回ったのですが、どこも置いてありませんでした。
  11. 20080201:[link]  しかし、当日になって気がついたのも不思議な巡り合わせというか、運命的なものを少なからず感じてしまいました。ちょうど仕事が暇になり、一緒に仕事をしている人と雑談をしていたところ、運転免許のことに話が及び、とっさに気がついたのです。その前には、七尾市の石崎で、地元出身の大相撲の元横綱輪島が、不祥事を起したとき、建立されていた銅像が取り壊しになったという話を聞き、そんなこともあったのかと、昔のことをあれこれと思い出していました。
  12. 20070617:[link]  七尾市に出かける前に、デジカメで撮影した部分を2点、これもgooのブログの方に掲載したので、ご紹介しておきます。
  13. 20070617:[link]  平成4年4月1日の事件を起こす前も、七尾市には長距離トラックの仕事で度々行っていました。特に平成4年に入ってからは、地元金沢市以外に、もっともよく行った場所と言っていいくらいでした。七尾市内で関東行きの荷物を積み込み、海岸線の国道を走って富山県の高岡市に出て、小杉インターから高速道路の北陸自動車道に乗るのがいつものパターンでした。
  14. 20070617:[link]  それから夕方に、七尾市の方にサラ金の支払いに行ってきました。これまでもちょくちょく七尾の方には行っているのですが、夕方まだ明るい時間に七尾市内を車で走ったのは、けっこう久しぶりのことかと思いました。
  15. 20070409:[link]  仕事の関係で、七尾市あたりの人の話は聞いていたのですが、けっこう被害があったそうです。
  16. 20070305:[link]  また、このような運行を決めるのは、配車係の仕事ですが、東渡は3月の初め頃から会社に寄りつかなくなっていて、七尾市で独立した運送の仕事をやるという話しもしていたようです。
  17. 20070305:[link] 住所 平成四年当時、石川県七尾市に家族と住み、単身金沢に働きに来ていた。
  18. 20061029:[link]  金曜日の夜ですが、宇出津の家に帰ってきました。途中七尾市を経由し、そこで倉木麻衣の最新CDアルバムを買いました。DVDのPVのおまけ付きで3500円でした。
  19. 20061027:[link]  ちなみに、石川県では私の知る限り明確な被差別部落というのはないようです。七尾と金沢市のごく一部に、朝鮮部落と聞く地名がありましたが、具体的な差別をされていると聞くことがありませんでした。さらにたまたま耳にしただけで、知らない人が多いようです。自分の方が知らないだけだったのかもしれませんが。
  20. 20061027:[link]  ちなみに、石川県では私の知る限り明確な被差別部落というのはないようです。七尾と金沢市のごく一部に、朝鮮部落と聞く地名がありましたが、具体的な差別をされていると聞くことがありませんでした。さらにたまたま耳にしただけで、知らない人が多いようです。自分の方が知らないだけだったのかもしれませんが。
  21. 20061002:[link] 住所 平成四年当時、石川県七尾市に家族と住み、単身金沢に働きに来ていた。
  22. 20060826:[link]  大網健二と大網周一というのは、大網健二が中学生の頃は折り合いが悪く、大網健二の方が大網周一を不良だと軽蔑していました。当時の大網健二は、極真空手に励み、電車で1時間半から2時間はかかった七尾市の極真空手の道場にも通っていました。私自身彼に誘われて、一緒に七尾の道場まで行ったこともありました。
  23. 20060819:[link] このうち前者である14日とすると、私は休日の前の夜に彼女の自宅に電話を掛けたことになるのですが、私としてはそのような感覚はないのですが、今思うに、これはもっとも可能性の高い事実かもしれません。そうすると、当日に河野さんと宇出津・七尾に行ったことは言うまでもなく間違いで、上申書に記載したものも誤りということになります。 一方で、後者である16日として考えてみると、まず、一回目の会見が当日でなかったことになり、そうすると、17日一回目の会見18日二回目の会見(美容院)となり、二日続けてあがりであったことになり、そうすると16日もあがりとして私は三日間運行に出発しなかったことになるのですが、やはりこれは不自然であります。
  24. 20060819:[link] 私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
  25. 20060819:[link] │ │ (河野さんと宇出津・七尾に行った可能性あり) │
  26. 20060819:[link] また、私が一月中でなかったかもしれないと思うのは、まず、その問屋町の話と前後して河野さんは、自分の一人娘のことをよく話していたのですが、その時点で私の娘さんに対する印象は薄かったのです。よって、一月四日の日に私は初めて河野さんの自宅に行きそこで初めて河野さんの娘さんを実際に見たのですが、かなりそれ以前に感じていたイメージとは違っておとなしそうな娘で中学生ぐらいに見えたほどだったのです。河野さんの話によると、十九歳か十八歳とのことで、性格のきついところがあることを実例を挙げて話しておられたのです。つまり、私が河野さんと一緒に七尾に行ったのは一月四日以前であったように考えられるのであります。
  27. 20060819:[link] また、河野さんと宇出津七尾に行ったのは一月二十二日以前であることは確実です。なぜなら、その一月二十二日をもって私と彼女の関係は只事ならぬものとして会社全体に認識されたのに対し、当日七尾から帰るとき河野さんが、この前問屋町の近くのレンタルビデオで彼女に会ったところ、彼女はその時、近くの問屋町内の友人宅に遊びに来ていると、言っていたと、河野さんが何気なく話し、私の何気なく聞いていたからであります。
  28. 20060819:[link] その日、私は昼過ぎに、中央市場にて、仲買よりミカンなどを積んで宇出津のAコープ能都店と七尾の公設市場に河野さんと一緒に私のトラックで行って来ました。
  29. 20060819:[link] 第4章(第四点)「河野さんと宇出津・七尾に行った日」
  30. 20060819:[link] ☆これは間違いなく十二月の中頃だと思います。そして、河野と宇出津−七尾に行ったのも十二月の中頃です。H.6.11.10
  31. 20060819:[link] 私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
  32. 20060819:[link] 1月14日〈火〉北陸 金沢から宇出津・七尾=河野さんと一緒に行った。
  33. 20060819:[link] 1月8日〈水〉 七尾 七尾
  34. 20060819:[link] ③私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
  35. 20060819:[link] 私はこれまで、彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言った事があったのは、日野からの電話の日の件を内容にしたものとばかり考えてきたようであるが、現在思うに、それは大晦日の電話のことを指していたのかもしれないとも思えるのである。七尾から高岡にトラックで向かっていたことはそれ自体関東への運行の他はないのである。しかしながらどの運行の時であったか、これも特定できていないのである。私の記憶の感覚では新年はじめの時期に行った関東便といえば埼玉県の東松山に行った運行なのであるが、この時は東度の嘘による仕事のことで彼女と色々話しているのであって、同日のこととは考えられない。日報によればその一月の上旬に関東に運行に出たこと自体形跡がないのである。どんよりした曇り空の中で海の側の漁協の横のバスの停留所の横でもある電話ボックスから掛けた電話でこの時初めてお母さんのことを話したことは鮮明に記憶しており、それと同じぐらいに他の事柄も脳裏に刻まれているのである。
  36. 20060819:[link] しかしどのように考えてみても、16日の木曜日から21日の火曜日までの間に三度の会見があったということはあり得そうにないのである。16日の木曜日以前に初めての会見があったということもこれまで再三の指摘の通り存在を認めることは困難な現状に変わりはない。先に三度ではなく二度しかなかったと仮定を立ててみたが、中央市場で缶コーヒーを買ってから会見に臨んだ時は、あらかじめ予定の行動をとったと考えられるのに対し、鮮明に覚えている初めての時は、意外な感じで偶発的な状況を捉えているのである。もう一つ気になるのは、日野自動車の前からの電話で彼女にラーメンでも食べにゆこうと誘った日の夕方に、会社に電話を掛け彼女から今晩自宅に電話してくださいと返事をもらいながらお母さんが出ていないと言っていた事実である。これとは別にある日の午後七尾から関東に向かう途中に県境付近の漁協の間かから掛けた電話で彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言ったことである。論理的に考えると、彼女が自分から電話を掛けてといいながら出なかった直後のことと考えられるのであるが、日野から電話を掛けたのは14日の火曜日である可能性が抜群に高いのである。日野に行った用事は12日の池袋のデパートでのシートの破れ以外には考えにくいのである。しかし、これは一月の初め頃のことであったのかもしれないと私は現在考えている。しかし、ここでもネックとなるのは、池袋に向かった12日の日曜日の夜に彼女の自宅に電話を掛けている事実である。この時は直接彼女が出たはずである。彼女が電話に出たこと自体、十一月の終わりの伊吹SAからの電話以来だったので特に印象が強いのであるが、お母さんから彼女に電話をつないでもらったこと自体も初めて掛けた十月の新車が来た日だけで他はすべて彼女が出るか、お母さんか兄貴か父さんが出ていずれもいないと言っていたのである。
  37. 20060819:[link] ところで、16日に関西に運行に出たとすると会社に戻ったのは18日の土曜日ということになる。三度目の会見があったのは私の記憶によると21日の火曜日、松平提出の日報によると22日の水曜日ということになる。私のはっきりした記憶では18日の土曜日に積み込んだミールを日曜日の夕方に出発して翌日名古屋大橋の近くの倉庫で卸しそこから岐阜県の可児市に行きパレットを積んでその日の夕方遅くに金沢の浜田漁業の工場で卸している。この運行自体は松平の日報においても同様の内容であるが、積み込んだのが20日の月曜日で翌日に名古屋で卸して戻ったことになっているのであり、その運行の前には17日の金曜日に七尾をミールを積み込み土曜日に山梨で卸し、東京で一泊して日曜日に池袋のデパートで展示会の荷物を積んで月曜日にそれを金沢で卸したことになっているのである。いずれを見ても長距離の運行に出ている日にちが多いので夕方に会社で彼女に声を掛けた可能性は限られている。私は記憶の場合では、18日の土曜日以外に可能性は考えられず、日報では、16日の当日と20日の月曜日の夕方名古屋に出発する前がかろうじて考えられるのみである。名古屋行きの運行では夜遅くに出発するのが通常で感覚的にも長距離というよりローカルに近い負担の仕事である。あまり早く出発するとかえって重量オーバーで捕まる可能性が高くなるということもあり、だいたい早くても7時以前に出発することは経験上ほとんどなかったはずである。これが大阪となるとかなり事情が違って積み荷の内容にもよるが、遅くても6時半頃には出発する。勢い時間的な意味の精神的余裕は少ない。可能性とすれば16日の木曜日にコーヒーメーカーの件があり、その数時間後に会社の横で初めて彼女に声を掛けたことも考えられるのである。これが名古屋行きの仕事であったなら私は迷わずその可能性を肯定できる。なぜなら名古屋行きの仕事前であれば精神的時間的余裕が充分だからであり、たとえ彼女との会話が深夜にまで及んだとしても何等気にはならなかったはずである。つまり仕事のことを気にせずに彼女に声を掛けることが出来たことになる。一方、これが大阪だとすると時間的な問題は抜きにしても、大阪に行った荷物は市場卸しの馬鈴薯以外にはあり得ないので大阪で荷物を降ろし終えた時間が必然的に遅くなるのであるが、深夜に馬鈴薯を卸したというのも休市日の夜中を除いて記憶にはない。只、大阪でも北部市場であれば時間はあまり気にせず余裕を持っていたはずである。本場のように市内の中心部にはいることはなく、市場の中でも込み合うことはほとんどないのでまるで事情が違うのである。どちらかといえば本場の方が多かったと思うが、着くのは8時頃がほとんどで9時以降に入ったという記憶はない。これは私の経験上本場の混雑や荷卸しに伴う問題性を十二分に認識していたためである。とりわけ鮮魚においては日本最悪の卸し先であり、青果においては勝手を知らないだけに不安が大きく過去にもひどい思いをした経験があったので最初から最後まで緊張が解けることはなかった。付随する事柄で一例を挙げても、荷卸し中に財布を取られたとか泥棒を多いと聞いていた。それ以上に気に掛かるのは山口組の菱形のマークを入れたトラックがよくいることで、普通の運送会社でも組関係の者が多いと聞いており、実際に同業者である金沢のウロコ運送の運転手がわずかにぶつけただけで何百万円の請求を受け金沢の会社まで押し掛けてきたという話を聞いていた。混み合った市場の中でそのようなトラックにぶつけてしまうことは避けることの出来ない多少の蓋然性が伴うのである。どうしても普段の倍以上に神経を使わなければならなかったのである。遅い時間になればなるほど九州や四国からのトラックが集まってきて作業に手間取ることを痛く承知していたのである。少なくとも私の認識はこうであり、そんな私が特別の事情もないのに夕方遅くまで会社にぶらぶら時間をつぶしその上で彼女に声を掛けたとは考えられないのである。加えて、これは北部も本場も共通であるが、馬鈴薯の卸しが遅くなれば当然その次の仕事先である和歌山県のかつらぎ農協の到着も遅い時間になっていたはずである。全般的に私がかつらぎに到着したのは夜中の2時頃がほとんどだった。これより早いことも遅いこともあまり記憶にない。大阪からかつらぎ農協までの所要時間は大体二時間ぐらいだった。逆算すると市場で馬鈴薯を卸し終えたのは0時前後ということになる。荷卸し自体にどれぐらいの時間が掛かったか性格には思い出せないが大体2時間ぐらいでスムーズにゆけば一時間半ぐらいだったかもしれない。これは市場に入って出るまでの時間の概算ではない。卸し始めるまでにも結構時間の掛かることがあり、受領書をもらうのにも多少の時間が掛かったはずである。一応九時に市場に着いたとすると、金沢を出たのはそれから五時間ぐらい前と見ておけばそう違いはない。すると四時に金沢を出たことになる。スムーズにゆけば四時間ぐらいであるから八時から八時半というのがやはり一番妥当な線である。これを六時に出たと考えると二時間づつのずれが出て、最終のかつらぎ農協では深夜の四時頃ということになる。こんな事も一度はあったような気もするが、滅多になかったことは確かである。そもそも六時の出発というのが中途半端なので、遅くなるときはもう少し遅く六時半か七時頃だったと思われる。当時の私の生活ぶりから考えて特に用事があったとは考えにくいので遅くなる原因は、会社で話し相手がいてついつい遅くなったということだろう。しかし、先にも述べたように大阪でも北部行きであればかなり気楽に考えていたので会社で時間をつぶしていたことも十分考えられるのである。
  38. 20060819:[link] ⑦そしてその日の午後、二階事務所で浜口さんと河野さんと竹沢が日産ディゼールのセールスマンと新車の発注のことで談合していたところ、私が「コーヒー飲んでもいいが?」と誰にともなく申し向けたのに対し、彼女が大きな声で「うん」と答え、その直後に私のいた台所に駆けつけ食器を洗い始めたところ、私がそこを出ると、ちょうど談合が自分の希望するように終えた浜口さんが私の体を押して彼女のいる台所の中に連れて行き、彼女に「お嬢...」何かを申し向けたのです。そこで私は緊張のあまりとっさに話題をあげようと「昨日追突された」旨を浜口さんに申し向けたのです。また、その日、そのあと浜口さんは関東方面に出発することを話しており、私は関西に向かうところであったように思うのであります。訂正 談合という言葉は不適切であると思われる。ここでの表現叙述は私自身が読んでも分かりずらく、内容がはっきりしない感がある。私が二階に入ったのは仕事先かどうかは分からないが外から戻ってすぐだったと思う。この日以来三月の上旬まで台所のコーヒーメーカーは姿を消したのであるが、それ以前にコーヒーを飲んだ記憶がはっきりしない。これが分かれば時期の特定に役立つのであるが少なくとも一番近接しているのは梅野と大倉がいた朝のことである。なお、現物の記載にしたがって番号を振るようにしているが内容自体とはあまり関係がない振り方である。一応ここでも番号を打っているがパソコンの機械自体⑳までしか丸数字がないのでそれを超える部分は違ったものを使っている。また、ここで私は浜口さんが関東、自分が関西に向かうところであったと思うのです、などといささか曖昧な表現をしているが、これはまず確実なことです。私は今気付いたのですが、この時浜口さんに昨夜の事故のことを話したのは確実なことで、これは他の書面でも再三記述していることですがその時彼は金になるとか金を取るべきであるようなことを言ったのです。刑務所にいた頃の記述ではこの日の特定が出来なかつたので重視していなかったのですが、先の趣意書にも記載したように事故の資料によってもその日が15日の夜と特定されているので、やはりこのコーヒーの件があったのは16日ということになります。そこで問題の日報を見たところ、16日の木曜日に私は水島倉庫に二回ミール移動をしたことになっているのです。さらにその翌日はこれも問題の大きい七尾から山梨に行き池袋から展示会の引き上げの仕事をした運行に出発したことになっているのです。私がなぜこの16日をコーヒーの件のあった日だと考えなかったかといいますと、その一番の原因はこの時期に文さんとの連続会見があったからです。会見の時の彼女はすごく恥ずかしそうにしていました。言い換えれば私と彼女の関係がもっとも穏やかだったのです。その穏やかさと、私が台所で彼女から逃げるような行動をとってしまったことはとても同時期の状況とは考えられなかつたのです。まだまだ検討の必要がありますが、その会見の時期自体にも特定が困難な問題が伏在しているのは趣意書に指摘してあるとおりです。特に初めて彼女に会社の横で声を掛けたときはいい感じの雰囲気だったのです。しかしながらあまりにそのことがうれしく印象的だったため私はその前後のことをほとんど覚えていないのです。その場のことだけ、彼女に声を掛けた瞬間の情景だけ鮮明に残っているのです。外はすっかり暗くなっていましたが遅い時間であったとか待ち時間が長かったという印象はないので遅くても五時半頃だったと考えられます。また、コーヒーの件の埋め合わせに彼女に声を掛けたという覚えもなく、唐突に声を掛ける気になってのでもなく、その場の状況で邪魔者がいなかった事などで偶然の機会を捉えたにすぎないのですが、私と彼女の関係自体は概ね良好で熟した感があったと思います。あるいはその時の彼女恥ずかしそうでありながらうれしそうな態度がそれまでの暗雲を一気に吹き消したのかもしれません。その彼女の反応は私の予想外の事でした。私の観念ではこの印象が前妻が訊ねてきた翌日に事務所で見た彼女の悲しそうな姿まで続いていたのです。それゆえ、この間に彼女本人が夕方の電話で今晩自宅に電話を掛けてくださいといいながら自宅に電話を掛けたところ出なかったことなど入り込む余地はないのです。また、その16日に関西に行ったこともまず間違いないと思うのですが、ここでも翌日の夕方に刀根PAからの電話で彼女に最高の女やと思うなどと言ったこともこの時期のこととしてはやはり考えられないのです。その前日の夕方には梅野のシャブ中発言がありこれが電話の内容の一番の動機になっていたことも再三述べているとおりなのです。数多くの問題がありますが考えれば考えるほど頭が痛くなる現状です。ここで一番の解決になりうるのは、会見が三度であったというのは私の思い違いで実際は二度しかなかったということかもしれません。先の一度の時は、彼女が美容院に行くと言って帰ったことでこの時は私が二本の缶コーヒーを彼女に手渡しています。特にコーヒーメーカーの件のことを意識していた訳ではなくその可能性もないと思います。そして最後の時が、前妻から連絡があった翌日の夕方でこの時はほとんど喧嘩のような状態になっているのであり、この事実は水口なども目撃しており客観的にも裏打ちされたことなのです。最初に声を掛けたとき、缶コーヒーを用意していた覚えは全くなく、その缶コーヒーはその少し前に中央市場の中で買った物なのです。その中央市場に行ったのも会社に電話を掛け彼女に話すのが目的だったような気もするぐらいなのです。しかし実際に電話で彼女と話してから声を掛けたという覚えもないので断定することは出来ません。今や私の望みのようにさえなりますがこれが二度であればその他の事実も整合性をもって論証できるのです。最後の時以外は彼女の申し出により実に短い時間で、具体的話などほとんどなかったのです。はっきりしていることはいずれの時も駐車中の私のトラックに乗ってもらいその中で話したと言うことです。なお、これは初めての記述になるかもしれませんが、缶コーヒーをあげたとき、私はトラックの助手席の方からドアを開け、そこから車の中に入って帰りがけの彼女に外で渡したのです。さて、裏駐車場での会見は二度であったのかそれとも三度であったのかこれは謎を解く大きな鍵となる問題です。しかし安易には断定できないのでさらに検討してゆきたいと思います。
  39. 20060818:[link] 当日の夜十一時半頃、私は七尾から積んだ荷物を関東地方の某所に運ぶ走行中、栃木県足利市の国道50号線沿いの太陽鉱油の給油所に給油に立ち寄ったところ、その機会を利用して給油所内の公衆電話より金沢の安田の自宅に電話を掛けたのです。夜中にならないと帰らないと思っていたのですが、予期に反してまもなく安田本人が出ました。そこで私は初めて彼女がプレゼントを受け取ってくれたことを知ったのです。
  40. 20060818:[link]  そして私は、その時来客か電話があって話し中であった松平に、オイルパンが割れたことを話し、修理を頼んで(スサキ自動車にしてもらったらしい)、それから七尾に荷積みに向かったのです。
  41. 20060818:[link]  また、その七尾に向かう直前、彼女がトラックを降りてから3~5分ほど遅れて私が二階に入ったところ、彼女の姿は見えず(台所にいたように思われるがはっきりしない)、池田と松平が満面の笑顔で私になにか優しく声を掛けそして松平はその時緑色の帽子を私にくれました。この時の松平と池田の態度は一月二十二日の午前十時半頃私がハサミを借りたあと二階の出入り口のドアを蹴って穴を開けたとき及びその直後の態度と実によく似ていたと印象にあります。当時私は、それを松平らが私と彼女に会社を辞められたくない一心によるなだめであるとばかり思っていたのです。それは彼女においても同様であり、その影響力はより大きなものであったと思います。
  42. 20060818:[link]  そのあと私は、七尾に行って能登木材よりたしか東京都練馬区行きの製材を積んで夕方五時十分ほど前に会社に戻りました。そして二階に上がったところ、浜口さん、浜上さん、河野さんなどがいて(東度はいなかったかもしれない)、彼女は私の姿を見ると(目は合っていない)、先ほどトラックで別れたときと同じように張りつめた緊迫した沈痛な面持ちで無言のまま足早に帰って行きました。その時二階にいた人々は知らぬ風をしておりましたが内心ニタニタしているのが特に河野さんにおいて感じられました。
  43. 20060818:[link]  その日私は未明に前日山三青果から積んできた荷物を降ろし、あがりのつもりで午前十一時頃に出社して二階に上がったのです。そのところ私の予期に反して彼女の隣の隣の席に座った東度は私に七尾から関東に走るように指示を出しました。その東度の言葉を聞いた瞬間文さんが、がつくりと首をうなだれるのがはっきりと見て取れました。それは12月21日の私が24日東京に行くことに決まっていると言った時、そしてそのあと藤江陸橋下にて私がプレゼントを車外に投げた時と全く同じような反応であり、それは裏駐車場を彷徨彼女の姿とともに当時の彼女の苦悩をあらわす特徴であります。
  44. 20060818:[link] ⑨これは初めての記述です。その日私はあがりであったところ、夕方六時頃になって浜口さんと浜上さんが、浜口さんのトラック(いすゞの1414か1413のどちらか)でかつらぎの近く(かつらぎ農協ではなくその近くの農協で、私は行ったことはない。他の人達は時々行っていたようである。)よりミカンを18トンほど積んで、七尾に卸しに行く途中に会社に立ち寄り、私は浜口さんに誘われて七尾に同行したのです。金沢に戻ってから、たしか松村町のエバラの近くの北海ラーメンで、ラーメンをおごってもらったことを覚えております。七尾には浜口さんと浜上さんと三人で行ったのですが、その時彼は、私と文さんとの関係を話題にすることも触れることも一切全くなかったと覚えております。時期ははっきり覚えていないのですが、これも十二月の中頃だったように思います。もしかすると多田に未明に告白した当日だったかもしれません。(この当時は忙しく、あがりの日は他の月よりも少なかったように思います。)
  45. 20060818:[link] ⑦その日私は出社後間もなく正午前に、七尾に荷積みに向かうのに二階から降りたところもしくは二階にて声を掛けられて、一階控え室にて会長夫妻にジヤンバーとズボン(茶色)をもらったのです。そして間もなく、洗車機横に停めてあった3068号に乗り込むところで、この時もあてもなくさまようような彼女の姿を裏駐車場タイヤおき保冷箱前あたりにて見たものであります。
  46. 20060818:[link] ④安田は、会社より東度のトラックに乗って七尾のパチンコ屋にいた東度にそれを届けたそうです。
  47. 20060806:[link]  同じ頃、大網周一が父親のサラ金の支払いのため七尾市に行ったとき、七尾の暴走族に取り囲まれ、どこかに連行されたようなことも話していました。
  48. 20060806:[link]  すべて伝え聞いた話ですが、大網健二はその祭りに行き、川昭夫という同級生らとトラブルになり、相手のグループがバックというかケツ持ちの七尾の暴走族かヤクザの名前を出したそうです。
  49. 20060806:[link]  トラブルのきっかけは七尾の暴走族が10数台ぐらいの改造車で祭りに来て、エンジンの空ぶかしをしていたところ、私の一つ年下のグループの一員が、福島組のナンバー2とかナンバー3と言われる人物の車を蹴飛ばし、さらわれて集団暴行を受けました。ぼこぼこにされていて、そのあと、私もいたのですが、七尾の連中との間でにらみ合いがありました。
  50. 20060806:[link]  昭和58年頃の宇出津のあばれ祭りのとき、七尾市には県内最大とも言われる福島組という暴力団があり、傘下には葵会とかいう暴走族があり、祭りに来ていたその暴走族とトラブルになり、大網兄弟の父親が解決に一役かったような話もありました。
  51. 20060806:[link]  前回は、平成9年2月頃のことについて書きました。大網健二から手紙を受け取ったときのことですが、47,8枚の手紙には、七尾市(石川県)で暴力団関係者もしていたという東渡好信についての情報を、彼から父親に頼んで集めて欲しいという依頼も含めていました。
  52. 20060805:[link]  中西運輸商については、平成6年頃金沢大学付属病院で、精神鑑定を受けた際、同じ精神科の閉鎖病棟にいた七尾市近辺出身のHRという人物が、労働組合の組合長だったかをしていたとき、ある中年女性を解雇したことに絡み、中西運輸商から依頼され右翼団体の人間から、執拗な攻撃を受け精神的な重圧に耐えきれず、ある日突然、精神がおかしくなりうつ病と診断されたらしい。
  53. 20051215:[link] 当日の夜十一時半頃、私は七尾から積んだ荷物を関東地方の某所に運ぶ走行中、栃木県足利市の国道50号線沿いの太陽鉱油の給油所に給油に立ち寄ったところ、その機会を利用して給油所内の公衆電話より金沢の安田の自宅に電話を掛けたのです。夜中にならないと帰らないと思っていたのですが、予期に反してまもなく安田本人が出ました。そこで私は初めて彼女がプレゼントを受け取ってくれたことを知ったのです。
  54. 20051215:[link]  そして私は、その時来客か電話があって話し中であった松平に、オイルパンが割れたことを話し、修理を頼んで(スサキ自動車にしてもらったらしい)、それから七尾に荷積みに向かったのです。
  55. 20051215:[link]  また、その七尾に向かう直前、彼女がトラックを降りてから3~5分ほど遅れて私が二階に入ったところ、彼女の姿は見えず(台所にいたように思われるがはっきりしない)、池田と松平が満面の笑顔で私になにか優しく声を掛けそして松平はその時緑色の帽子を私にくれました。この時の松平と池田の態度は一月二十二日の午前十時半頃私がハサミを借りたあと二階の出入り口のドアを蹴って穴を開けたとき及びその直後の態度と実によく似ていたと印象にあります。当時私は、それを松平らが私と彼女に会社を辞められたくない一心によるなだめであるとばかり思っていたのです。それは彼女においても同様であり、その影響力はより大きなものであったと思います。
  56. 20051215:[link]  そのあと私は、七尾に行って能登木材よりたしか東京都練馬区行きの製材を積んで夕方五時十分ほど前に会社に戻りました。そして二階に上がったところ、浜口さん、浜上さん、河野さんなどがいて(東度はいなかったかもしれない)、彼女は私の姿を見ると(目は合っていない)、先ほどトラックで別れたときと同じように張りつめた緊迫した沈痛な面持ちで無言のまま足早に帰って行きました。その時二階にいた人々は知らぬ風をしておりましたが内心ニタニタしているのが特に河野さんにおいて感じられました。
  57. 20051215:[link]  その日私は未明に前日山三青果から積んできた荷物を降ろし、あがりのつもりで午前十一時頃に出社して二階に上がったのです。そのところ私の予期に反して彼女の隣の隣の席に座った東度は私に七尾から関東に走るように指示を出しました。その東度の言葉を聞いた瞬間文さんが、がつくりと首をうなだれるのがはっきりと見て取れました。それは12月21日の私が24日東京に行くことに決まっていると言った時、そしてそのあと藤江陸橋下にて私がプレゼントを車外に投げた時と全く同じような反応であり、それは裏駐車場を彷徨彼女の姿とともに当時の彼女の苦悩をあらわす特徴であります。
  58. 20051215:[link] ⑨これは初めての記述です。その日私はあがりであったところ、夕方六時頃になって浜口さんと浜上さんが、浜口さんのトラック(いすゞの1414か1413のどちらか)でかつらぎの近く(かつらぎ農協ではなくその近くの農協で、私は行ったことはない。他の人達は時々行っていたようである。)よりミカンを18トンほど積んで、七尾に卸しに行く途中に会社に立ち寄り、私は浜口さんに誘われて七尾に同行したのです。金沢に戻ってから、たしか松村町のエバラの近くの北海ラーメンで、ラーメンをおごってもらったことを覚えております。七尾には浜口さんと浜上さんと三人で行ったのですが、その時彼は、私と文さんとの関係を話題にすることも触れることも一切全くなかったと覚えております。時期ははっきり覚えていないのですが、これも十二月の中頃だったように思います。もしかすると多田に未明に告白した当日だったかもしれません。(この当時は忙しく、あがりの日は他の月よりも少なかったように思います。)
  59. 20051215:[link] ⑦その日私は出社後間もなく正午前に、七尾に荷積みに向かうのに二階から降りたところもしくは二階にて声を掛けられて、一階控え室にて会長夫妻にジヤンバーとズボン(茶色)をもらったのです。そして間もなく、洗車機横に停めてあった3068号に乗り込むところで、この時もあてもなくさまようような彼女の姿を裏駐車場タイヤおき保冷箱前あたりにて見たものであります。
  60. 20051215:[link] ④安田は、会社より東度のトラックに乗って七尾のパチンコ屋にいた東度にそれを届けたそうです。

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