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2021年5月8日土曜日

「平成(4|4).*(4月1日|4月1日)」を過去のはてなダイアリーの記事から検索

  1. 20111118:[link] *1321608492*[再審請求の資料]平成4年4月1日付自首調書(金沢西警察署・巡査部長・箕谷芳久作成)(写真 7 枚) - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム
  2. 20111118:[link] [再審請求の資料]平成4年4月1日付自首調書(金沢西警察署・巡査部長・箕谷芳久作成)(写真 7 枚) - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム
  3. 20090707:[link] 七夕と言うことで思い出すのは、平成3年の7月に家出をされ、離婚した時に、子どもがアパートに残していった七夕の飾り物でした。竹も枯れ、引っ越しを 5日ほど前に控えた翌、平成4年の4月1日に私は事件を起こしたのです。これも平成9年の1月18日まで、福井刑務所で服役しました。
  4. 20090525:[link] 事の始まりは私が18年前の平成4年4月1日に起こした傷害・準強姦事件に
  5. 20090405:[link]
  6. 平成4年4月1日
  7. 20080626:[link]  これまでにも何度か書いてきたことだと思いますが、今一度整理しますと、事件の発生が、平成4年4月1日、初公判が同年6月18日、結審が同年6月30日で、判決が出たのが同年8月3日でした。
  8. 20080611:[link]  振り返れば、自分自身も変わってきたと思いますし、変身に伴う強烈な衝撃苦しみを最初に受けたのも平成4年4月1日でした。
  9. 20080330:[link]  事件を起こしたのが、平成4年4月1日。金沢西警察署に被害者の救急搬送を依頼して出頭したのが、確か20時23分です。この時間は、取調べを受けた谷内孝志警部補に、翌日か翌々日の取調べ時に聞かされた時刻です。警察官は常に時計で時刻を確認する習慣があるとも聞きました。なお、谷内という名前は、「やち」と読んだはずです。能登半島に比較的多い名前の一つですが、学校の先輩で一人だけ「やない」と読む人がいました。また、取調べ時の雑談で輪島市の出身とも聞きました。私の出身の宇出津と同じ能登半島の市町村ですが、あまり交流がないばかりか、対立傾向が少なくないという特徴が以前はありました。ただ、私の場合、個人的に輪島の人とは交流があり、事件そのものとも多少関わりを持っています。
  10. 20080316:[link]  というのも事件を起こしたのが、平成4年4月1日で、被害者は私が金沢西警察署に出頭し、救急搬送を依頼した直後、搬送中の救急車内で意識不明の状態になり、その後、6月の中頃ぐらいに意識を回復したようですが、記憶が戻らない状態であったようです。
  11. 20071014:[link]  私が傷害・準強姦事件で金沢西警察署に出頭し逮捕されたのが平成4年4月1日のことで、長い未決勾留のあと、福井刑務所で服役し、社会に戻ったのは平成9年1月18日のことでした。
  12. 20070630:[link]  私自身、前々から気になっていたことは、ブログのみならず、告発、告訴状の方でも、平成4年1月21日から、4月1日の事件当日より、前の状況については、あまり細かい説明をしていないかもしれないという点です。
  13. 20070617:[link]  先日もgooのブログの方に、表紙のような部分を写真画像として掲載しましたが、中味を見てみると4月9日付と4月10日付のものが一緒に閉じられ、内容を見ると平成3年の6月頃から平成4年4月1日の直前のことまでが、全体的な流れとして書き綴られていました。
  14. 20070617:[link]  平成4年4月1日の事件を起こす前も、七尾市には長距離トラックの仕事で度々行っていました。特に平成4年に入ってからは、地元金沢市以外に、もっともよく行った場所と言っていいくらいでした。七尾市内で関東行きの荷物を積み込み、海岸線の国道を走って富山県の高岡市に出て、小杉インターから高速道路の北陸自動車道に乗るのがいつものパターンでした。
  15. 20070610:[link]  上申書の内容は、自分自身が引き起こした平成4年4月1日の傷害・準強姦事件について、金沢地方検察庁の方で再捜査を行い、検察官から再審請求を行って頂きたいというものです。
  16. 20070326:[link]  これらはすべて平成4年4月1日の事件において、金沢西警察署で供述調書を作成しておりますし、ある程度具体的なことを述べています。また、これらの供述調書は内容を複写したものを個人サーバのホームページやブログにも、かなり前から公開してありますので、読んでいる人も少なくはないはずですが、内容に踏み込んだ感想や意見など皆無です。
  17. 20070326:[link] 平成4年4月1日について
  18. 20070305:[link]  今回、重点的に詳しく書きたいのは、平成4年1月21日のことです。安藤文本人から話しが聞けない以上、私個人の推量になる部分も多々あるかと思いますが、内容の正確性については十分な自信を持っていますし、それが安藤文の本心であると同時に、真意を汲み取り、信じ切ることが出来なかった、私自身の、言い訳と事情についても書いておきたいと思います。とにかく、この当日は、4月1日の事件当日に次ぐ、大きな分岐点のような一日で、真相の大きな鍵を握る被告訴人の一人、浜口卓也とも密接に関わっています。
  19. 20070305:[link]  ちなみに、平成4年の4月1日の事件の時は、翌日の運行予定として、引っ越しの荷物を積んで東京に行くことが決まっており、さらに多田敏明を同乗させるとも言われていました。私が乗務するのは10トンの大型トラックであり、多田敏明は大型免許を持ってはおらず、大型車の運転をしたことがあるとも聞いたことはありませんでした。これも貪欲な情報収集が目的であったと考えるのが自然です。
  20. 20070305:[link]  平成4年4月1日、告訴人である私は同じ市場急配センターの事務員である安藤文に対する傷害事件を起こし、金沢西警察署に出頭、その後金沢地方裁判所において懲役4年の実刑判決を受け、平成9年1月18日まで福井刑務所に服役しました。この外形的な事実に関して争いの余地はありませんが、事件に至った過程において被告訴人らの不法な侵害行為が介在しており、また、そのような犯罪行為がなければ、決して起こることのなかった事件と考えます。
  21. 20061112:[link]  初めまして検事総長殿。私は石川県に住む廣野秀樹というものです。問題の事件は平成4年4月1日、私自身が起こした傷害・準強姦事件に端を発するもので、私は同年8月3日に懲役4年の実刑判決を受け、最高裁まで争いましたが上告棄却、即時抗告も棄却されて確定し、平成9年1月18日まで福井刑務所に服役しました。
  22. 20061022:[link]  結局、平成4年4月1日の事件を起こしましたが、それでも彼女の態度は変わらず、求めていた答えを聞き出すことは出来ませんでした。
  23. 20061020:[link]  やはり告訴、告発事件より先に、原点となる平成4年4月1日の事件について不明な点をはっきりさせておく必要を痛感しました。
  24. 20061009:[link] +(平成4年4月1日)金沢西警察署に出頭逮捕
  25. 20061002:[link] 平成3年6月22日頃から平成4年4月1日
  26. 20060829:[link]  私がこのブログで取り上げている殺人未遂事件は平成4年4月1日を規準にしており、もう14年以上経過していることになります。本来この事件は極めて単純なかたちで処理されているもので、私自身が被疑者、被告人としてその年の8月3日には金沢地方裁判所において懲役4年(求刑4年)の判決が出て、名古屋高裁金沢支部での控訴、最高裁判所での上告、抗告を経て、平成6年1月21日頃に刑が確定し、3月17日ぐらいに福井刑務所に移送され、平成9年1月18日に満期出所しました。
  27. 20060827:[link]  平成4年4月1日の事件当日、レストラン十字での会話で、安藤文が今度新しい女子事務員を入れるらしい、木村さんの紹介らしいなどと話していたことがありました。非常に些細なことを書いているようですが、あるいは事件を起こす大きな要因として働いていたかもしれない話なのです。
  28. 20060826:[link]  またしても前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。平成10年秋頃の状況についての説明の続きです。平成4年4月1日を規準にした問題について、この時期の説明をしているので、初めて読む人はまったく意味が分からないと思いますが、これもその都度説明を繰り返すわけにはいかず、適宜過去のデータを読んで頂くしかありません。
  29. 20060823:[link]  自首した当日、つまり平成4年4月1日の夜のことですが、その時は別の刑事が供述調書を書いていました。これを「自首調書」と呼んでいたはずです。翌日の朝から谷内警部補が取調べにあたるようになり、以降別の捜査官から取り調べを受けた憶えはありません。
  30. 20060815:[link]  判決の不当性や、組織犯罪の存否を書く前に、平成4年4月1日の私自身が起こした事件について説明をする必要もありそうですが、これも実際は十分とは言えないものの資料をずいぶん前から公開しているところです。近いうちに、平成3年中の事件に関する事実をまとめて記載した資料がありますので、それをエントリとして掲載しようと考えています。
  31. 20060814:[link]  告訴の被疑事実は共謀共同正犯による殺人未遂事件であり、刑事罰を求める関係からもこれ以外の選択はあり得なくなっています。なぜなら実行行為の結果発生を起点とした場合、平成4年4月1日が公訴時効の起算点となるので、すでに14年3ヶ月以上経過していることになるからです。
  32. 20060806:[link]  私の社会生活というのは、平成4年4月1日の夜から、平成9年1月18日の出所まで、およそ4年10ヶ月の間、ほぼ外部から遮断された状態でした。接見禁止など一度も受けていないので、拘置所にいるときは、面会をすることもあったのですが、ごくごく限られたもので、外部のことはほとんど分からないままでした。
  33. 20060728:[link]  平成4年の4月1日に逮捕されて以来、その年の秋頃から私は独自に法律の勉強を始めました。安藤文さんの意識が回復したことで、大きく気を取り直すことが出来、前向きに出来ること、やるべき事を考えるようになり、すぐに法律の勉強を始めました。
  34. 20060725:[link]  事件というのは平成4年の4月1日の起こりました。私が起こしたのです。この外形的な事実関係については、これまで一切の争いはありません。
  35. 20060109:[link]  基礎となる事件というのは、平成4年4月1日に私が起こしました。被害者は同じ運送会社の女子事務員安藤文(当時21歳)、私は長距離トラック運転手でした。
  36. 20060109:[link]  基礎となる事件というのは、平成4年4月1日に私が起こしました。被害者は同じ運送会社の女子事務員安藤文(当時21歳)、私は長距離トラック運転手でした。
  37. 20060109:[link]  基礎となる事件というのは、平成4年4月1日に私が起こしました。被害者は同じ運送会社の女子事務員安藤文(当時21歳)、私は長距離トラック運転手でした。
  38. 20060109:[link]  基礎となる事件というのは、平成4年4月1日に私が起こしました。被害者は同じ運送会社の女子事務員安藤文(当時21歳)、私は長距離トラック運転手でした。
  39. 20051219:[link]

     事件というのは平成4年の4月1日の起こりました。私が起こしたのです。この外形的な事実関係については、これまで一切の争いはありません。
     罪名は傷害と準強姦罪。後者は追起訴になり、併合審理を受けました。
     被害者は同じ会社に勤める女性事務員、安藤文。当時21歳です。私はその当時27歳でした。彼女との関係はその前年6月頃に私が、金沢市場輸送から事件の舞台になった市場急配センターに移ってからのことです。彼女と個人的な関わりを持つようになったのが、9月の中頃からで、10月の5日の夜の電話で、私は彼女に初めて交際を申し込みました。それから事件に至る半年ほどの間には、実に様々なことがありました。その積み重ねが、事件へと結びついたのです。
     彼女は、私が出頭した金沢西警察署から石川県立中央病院への搬送中、救急車内で、意識を失い、少なくとも3ヶ月ぐらいの間は、意識を失ったままで、意思表示をすることが出来ない状態だったようです。一応意識が戻ったと聞いたのは、その年、6月30日の公判の時でした。この公判が結審になり、8月3日に懲役4年の実刑判決を私は受けたのです。逮捕拘留から実質審理を受ける間だ、当人である被害者から話を聞くことが出来ない状況だったので、判決の基礎となった事実関係は、会社の同僚や、上司らによる供述と、被害者の両親によるものでした。要約すると、私が一方的に彼女に好意を抱き、執拗に交際を迫り、いい返事をもらえなかったことから立腹し、ついには殴る蹴るの暴行に及んだ、というものです。
     両親のことはとりあえず、除外します。しかし、この事実は、両親の供述というものは、極めて感情的なもので、法的効力を持つような信用性は、乏しいものだという印象を導きました。「知らぬは親ばかりなり」という印象です。しかしながら、本件では、幸いなことにこの通説を覆すような事実経過が、存在します。この点につきましても、後日ご説明したいと考えております。
     両親の供述供述調書も、私は見ておりますが、具体性がありません。それもそのはず、通常、自分の娘の会社のことは、ほとんど何も知らないものと言えるからです。ある程度の、会話はあったと思いますが、それによると彼女は、親切で優しい人たちのいる会社などと話していたそうです。
     警察としても、会社内の問題であり、会社の関係者の話を重視し、それを中心に捜査を進め、刑事手続きを進めたことは想像に難くないところです。
     どのような経過があったのか、私は当日に身柄を拘束されているので、直接には知る由はありません。ただ、初めから面会禁止などされておらず、何度か面会もしているので、おおよそのことは伝わりました。
     当時私は、これを自分と彼女の個人的な問題と考えていたので、大変なことをしでかした以上、理解や見方をしてもらうことは無理だと考えていました。それに頭の中にあったのは、彼女の容体の回復ばかりでした。意識不明の状態で、いつ死んでしまうかもしれず、このまま植物人間になる可能性も高かったのです。それ以外のことを考える余裕などほとんどありませんでした。自分にとって、不利な方向に進んでいるとはうすうす感じていましたが、ここまで本格的に警察の厄介になったのも初めてだったので、半信半疑のまま成り行きに任せるしかなかったのです。
     私は、3歳ぐらいの時に父親を亡くし、兄弟もおらず、母親一人に育てられました。父方の親戚は地元宇出津でしたが、行き来もほとんどなく、母方の親戚は、京都方面ばかりで、金沢には一人の親戚もおらず、このあたりも不利に働いたと思います。当時会社以外でつきあいのあった友人は、同郷の二人だけでした。この二人は、福井刑務所を出たときも向かえに来て、そのうちの一人は金沢刑務所を出たときにもきました。どちらも事前の連絡はありませんでした。
     初めから母親には、親切に頼んで費用を工面するので、私選弁護士をつけるように勧められていたのですが、私はお金で自分の罪を軽くするようなことは潔くないと考え、それ以上に彼女の両親に、これ以上悪い印象を与えたくないという配慮からこれを断っていたのです。国選弁護人が付き、一度だけ面会があったのですが、具体的な打ち合わせのようなものはありませんでした。
     控訴審の時は、私も考えを改め、事実を明らかにするのが自分の責任だと考えるようになり、私選弁護人を選任してもらったのですが、これも具体的なやりとりが乏しく、弁護士は私の意見や主張など採用せず、精神鑑定の請求をし、心神喪失もしくは心神耗弱の線で、弁護活動を行いました。上告した最高裁では、東京の弁護士が付き、そちらから事件の関係者の供述調書のコピーが送られてきました。縮小版です。
     それを見て、私は初めて事件の真相らしきものに触れることが出来たのです。そこには普通に生活していたのでは、決して知ることが出来ないような事実が多数含まれていました。
     事実は予め用意されていたのです。会社の連中の共同作業によって、彼女がいかに利用され、翻弄されていたのかも窺い知ることが出来ました。その内容を合理的に解釈する限り、彼女や私の意思というものは、存在しません。予めその存在を消す、つまり殺してしまうことを大前提に、進められていたとしか考えられないような問題が発覚したのです。

  40. 20051218:[link]  とにかく被害者とは、平成4年4月1日以来、一度も会っていませんし、唯一の窓口だった父親とも、連絡はありません。そろそろ連絡をしてみようとも考えているのですが、もうしばらく時間をおくつもりでいます。世間の理解が余りにも浸透していないからです。忌避されているのかもしれません。
  41. 20051218:[link]  もっと過去になりますが、流れをさかのぼると、私は文さんの事件で平成4年4月1日に金沢西警察署に出頭逮捕され、平成9年1月18日に福井刑務所を出ました。
  42. 19920401:[link] 平成4年4月1日付自首調書_金沢西警察署 | 再審請求_金沢地方裁判所御中
  43. 19920401:[link] *1314109372*[過去の資料]平成4年4月1日付自首調書_金沢西警察署

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