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告発状作成中

2021年5月25日火曜日

2007年12月24日 これから告訴状の作成に取りかかります。いろいろと気持ちの整理もつかず、作成自体が大幅に遅れてしまいました。

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* 告訴に至る経緯


** この告訴状についての説明


*** 2007年12月24日

 これから告訴状の作成に取りかかります。いろいろと気持ちの整理もつかず、作成自体が大幅に遅れてしまいました。この間の事情も出来るだけ書いておきたいところですが、告訴の事実を中心に書かねばならず、正確に事情や状態を把握していただくには無理もありそうです。これから書き始めたところですが、現在の時刻は2007年12月24日の20時を過ぎたところです。


*** 2008年1月1日

 年も明け、2008年になりました。ご覧のとおり、告訴状の作成はまったく進んでおりません。1月1日の時刻も21時40分を過ぎたところであり、短い正月休みも3日で終わりです。連休は12月30日からでした。5日間という時間の全てをこの告訴状の作成に注ぎこみ、年明け早々に御庁に郵送する予定でいたのですが、ようやく緒についたところであり、少し長引きそうです。まず、12月24日に手を付けたものの中断した理由ですが、書面の構成を整える上で、テキスト作成のプログラムにEmacsを採用し、作業環境であるパソコンのOSもLinuxで行っています。 最終的にWindowsのワープロソフト一太郎で印刷することになりますが、そのような作業環境の構築および操作方法の取得に時間が掛かってしまいました。 整形したまとまりのある書面にするのが、目的であり、これにEmacsのアウトラインモードというものを使っています。あらかじめ項目別の見出しを用意することで、全体像を把握しながら、適宜見出しの内容部分を折り畳み、対象の表示非表示を切り替えながら、編集できるという機能です。本件告訴の対象となる事実は、現在から16年以上にさかのぼり、登場人物も多く、事柄も絡み合い多岐に渡ります。全体としてのまとまりをつけるのが主たる目的であるので、アウトライン

の機能を駆使しながら、行きつ戻りつしながら、個々の部分的な事実を個別に記載していきます。


*** 2008年7月7日

 この告訴状に手を加えるのは1月以来のことになります。どのような書面にするか、ずいぶんと思い悩んできたのですが、結局、2007年12月24日から始めた作成書面に追加編集を加えることにしました。少し前までは、細かい事実関係

や事情などは、別途参考資料というかたちで提出するつもりでいたのですが、考えを変えて、告訴状として一本化することにしました。 なお、追加部分は、ご紹介済みの「はてな」のブログ(http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/)

にて、[2008]というカテゴリで順次掲載していきます。


 この前までは、そのカテゴリの内容を参考資料にするつもりでいたのです。また、ブログのエントリとして公開した部分は、後日見直しをして修正する可能性があり、最終的に再編集を行う予定です。 この告訴状は、EmacsでOutlineモード、AutoFillモードという機能を使って作成しています。そして、リージョンという範囲選択を行い、選択部分を同じEmacsのWanderlustというメール機能を使って、メール送信することでブログのエントリとして、アップしていきます。


 はてなのブログの更新には確か4月ぐらいから、メールを使っています。それは、hatena-modeというものを使っていたのですが、特殊な文字が含まれてと全体が文字化けを起こすという問題があり、とても便利ではあったので、メールを使うようになりました。メールと言っても、文字入力を行い編るのはEmacsです。本来は、管理画面の投稿フォームを使うのが一般的なはすが、作成中の文章の見通しが悪い上、操作のやり直しや取り消しもままません。間違いも起こりやすく、非常に非効率です。


 Emacsにつきましては、ほかにもご説明をすることがあるかと思います。本題はずれるようですが、このような一般的ではない環境において、書面を作ており、また、私がEmacsと出会ったのも、平成10 年頃のことで、ようやいこなせるようになったのも、一年ぐらい前からです。 Emacsは、史上最エディタともいわれて久しいものですが、頭抜けて高機能な反面、操作もで馴染みがたく、さらに難解な概念が多数含まれています。プログラミン直結したような概念でもあり、本来はプログラミングの目的で使用されるが多いソフトウェアです。


 フリーソフトウェアの先駆者であり、インターネット社会にも多大の影響を与ているリチャードストールマンが開発したエディタであることは、知る人ぞるところですが、普通にはほとんどしられていないはずです。 そもそもがディタという言葉自体知らない人が多いことでしょう。エディタはワープロフトと似て非なるものですが、文章の作成に特化し、文字装飾、印刷機能なは貧弱です。また、テキストファイルを主に扱いますが、ワープロのデータ純粋なテキストファイルではないことが多く、互換性が問題になったり、どようなワープロソフトでも読み込める保証がありません。 また、プログラで使う文字列はテキストファイルでなければならず、それゆえに、エディタ必要になるのですが、通常のワープロソフトであれば、テキスト形式での保も可能なはずです。


 最終的に、この文書も書面として印刷して御庁に提出する運びになりますが、indowsパソコンのワープロソフトで印刷するか、それとも同じLinux環境でatexという文書整形組版処理システムソフトで印刷するかは未定です。Latex使えば、PDFファイルとして変換することも容易ですが、手間もかかりそうなで、どうするかわかりません。 長々と余計な説明をしたようですが、上述ような環境と方針のもとで、これからさらに長い時間をかけて、この書面を成していきます。また、内容的にも、これまでインターネット上で公開してた情報や、それに対する反応も前提にしていきますので、URLのご紹介や、引なども増えると思います。インターネット上のURLでのご紹介になりますが、真等の資料も随時、活用する予定です。





** インターネットを利用した情報発信及び情報公開について


*** 2008年7月8日

////////////////////////<引用の開始>////////////////////////////////


[[【刑事事件】「ネット世界で無視した人を見返すため」容疑者が供述]]


http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080708#1215448536


 秋葉原通り魔殺人事件の容疑者ですが、このような心理状態を「異常」と片付けるのは簡単ではあるものの、ネットにはまりすぎることの危険性、ということを示しているような気がします。私自身、ネットを見ている時間が結構長いほうではありますが、リアルな場でのコミュニケーションの機会もそれなりにあって、バランスは取れているほうではないかと思っています。しかし、そういったバランスが崩れ、ネットに過度に依存し、ということになれば、知らず知らず、危険な領域に踏み込んでまう、ということも起き得るでしょう。


この種の問題は、今後、増えることはあっても減ることはないはずで、ネットユーザーのメンタルヘルス、ということは、今後、ますます重要性が増して行くように思います。


////////////////////////<引用の終了>////////////////////////////////


 今朝、落合弁護士のブログで見たエントリです。なお、印刷する書面には下記のhtmlタグが含まれますが、これはブログでの見栄えをよくするためのhtml及びcss(スタイルシート)の指定です。余分な部分になると思いますが、今後も出てくると思いますので、ご理解願います。


////////////////////////<引用の開始>////////////////////////////////


[刑事事件]「ネット世界で無視した人を見返すため」容疑者が供述


http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080708#1215448536


秋葉原通り魔殺人事件の容疑者ですが、このような心理状態を「異常」と片付けるのは簡単ではあるものの、ネットにはまりすぎることの危険性、ということを示しているような気がします。私自身、ネットを見ている時間が結構長いほうではありますが、リアルな場でのコミュニケーションの機会もそれなりにあって、バランスは取れているほうではないかと思っています。しかし、そういったバランスが崩れ、ネットに過度に依存し、ということになれば、知らず知らず、危険な領域に踏み込んでまう、ということも起き得るでしょう。


この種の問題は、今後、増えることはあっても減ることはないはずで、ネットユーザーのメンタルヘルス、ということは、今後、ますます重要性が増して行くように思います。


////////////////////////<引用の終了>////////////////////////////////


  上記では、別に>||と||<(本来は半角文字)で括りましたが、これは「はてな」独自の便利な機能で、スーパーpre表記といいましたか、htmlで特別な意味を持つ文字を無効化するもので、特にプログラムのソースコードの表示に重宝するものです。また、特別なタグで囲まない部分のURLには、自動的にリンクが設定されるという特徴もはてなのブログにはあります。


 また、もう一点お見苦しいことになるかと思いますが、頻繁に<br />(<>も本来は半角文字)を使うことになりますが、これはhtmlにおいて、改行を意味するタグです。preタグなどは、この点の煩わしさを解消するのですが、あまり頻繁に使うとかえって見苦しくなるかと思います。その他の設定も独自に作成したスタイルシート内に込められており、ffhというclass指定をしております。


 この辺の特殊文字の扱いはプログラム全般における処理なのですが、Latexなどでもこのあたりが面倒な作業になるのです。



 さて、本題に移ります。21時を過ぎており、今日も少ししか書けません。昨夜は3時間ほどしか寝ておらず、さらに夜中に大きな音の雷と大雨で目が覚めてしまい、短い時間しか眠れませんでした。その割に体調はよかったのですが、連日ハードな仕事が続いています。今日は、気温もさほど上がらず湿度も悪くなかったので、割合過ごしやすかったのですが、仕事のある平日は疲れていることが多く、休日でも体調の回復に時間がかかるようになっています。


 これも告訴状の作成が大幅に遅れた一因でもあるのですが、今後も当分の間は、環境改善を期待しがたく、体力的にも一年のうちでももっとも過酷な時期を向かえることになります。



 集中して記述を進める時間がとりにくく、勢い散文調になることをご容赦願います。その辺の打開策としてもEmacsでのOutLineモードの活用などを行っている次第です。Outlineモードを使うと階層的な見出しと本文の切り分けを行うことが出来、全体像の把握や部分的な編集がやりやすくなるのです。



 またしても横道にそれましたが、これまでのインターネットを使った情報発信、情報公開については、御庁もよくよくご存知のことと思います。これまで度重なった告発、告訴状の返戻、不受理につきまして、繰り返し指摘を受けてきたのは、「具体的犯罪事実の記載が認められない」というものであったと思います。私の勝手な解釈にもなろうかと思いますが、御庁が重視されているのは、私の事件にたいする社会の理解と反応であると受け止めてきました。


 とりわけ重視されたのは、基本的人権の担い手である弁護士、そして法学者、さらにジャーナリストを含むマスコミではないかと考えました。2006年の12月に最高検察庁から返信を頂き、問題性を認められたかたちであったはずですが、その後の世間の関心も乏しく、ブログのアクセス数は伸び悩んだ状態が続いてきました。問題について考える前に、読んでもらえなければ、前提を欠き先には進めません。そのようにして今日に至っているわけです。


 ご紹介した落合弁護士のエントリですが、そのような目で、私や私のブログ見て、相手にしないという人も少なくはないのかもしれません。ブログのアクセス状況につきましては、時折ブログ上においても情報公開していますが、画像ファイルを使う関係上現在は主に、Bloggerのブログにて公開しています。このブログのタイトルは、「刑事司法へのテーゼ」です。


http://hirono-hideki.blogspot.com/



 そういえば、昨夜、はてなブログのログを少し見ると、


http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2006/10/post_47dd.html



からのアクセスが数件目につきました。山口貴士という弁護士さんのブログで、これは2006年10月のエントリのようです。私が送信したトラックバック

のリンクがそのままになっていて、そちらからのリンク訪問だと考えられまし


 ブログではタイトル部分がリンクになっていることが多く、そのリンクをククすることで、ブログ本体のURLに接続し、このような接続をすると最新5とか5件、10件のエントリといったデータが表示されます。


 そうして見たところ、


<【言葉狩り】差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚【万歳?】>


http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2008/06/post_8fbb.html


というエントリに出会い、いろいろと考えさせられるところがありました。



 元検弁護士のブログにおける攻撃はなんだったのか、改めて考えました。



 その元検弁護士のブログも最近になって大きく様変わりしたようです。


<反省しない(と裁判官が考える)被告人>


http://www.yabelab.net/blog/2008/07/07-161319.php


という7月7日付けのエントリも考えさせられることの多いテーマですし、私のを意識したエントリなのかと勘ぐることもありました。その前日のエントも考えさせられることが書いてあったのですが、7月8日22時22分の今現在いてもコメントはゼロのままのようです。


////////////////////////<引用の開始>////////////////////////////////


「ミナミの帝王」になりたかった男


http://www.yabelab.net/blog/2008/07/06-144344.php


「ミナミの帝王」になりたかった男



“ミナミの帝王”が女性検事に叱られて… (産経ニュース)



 いろいろ深読み淺読みができるニュースですが


 この被告人、捜査段階(起訴前)に弁護士がついてなかったんでしょうか?


 弁護士を雇えないほど金がなかったとは思えないんですが、、、


 淺読みとしましては、検事が女性かどうかは関係ないと思います。


モトケン (2008年7月 6日 14:43) | コメント(0) | トラックバック(0)  

(Top)


////////////////////////<引用の終了>////////////////////////////////


 「淺読み」という言葉を初めて見て、ネットで調べたのですが、情報も少な馴染みのない言葉のようです。どうも浅読みと同義のように思われるのです、モトケンさんは、私や私のブログのことをどのように深読み淺読みされてるのかと、改めて考えてしまいました。



 先日、大幅な模様替えが行われた元検弁護士のブログですが、Aboutという自紹介と思われるリンクが、


工事中です。 m(_ _)m


のままになっています。これは、模様替えの前からであったと思われるのです、以前は、経歴とともに、実名も公開されていました。


 この元検弁護士のブログには、匿名と実名等の問題でも対立の様相を呈する倉秀夫弁護士がいて、元検弁護士のブログの常連コメンテータからもボロクにこきおろされていました。小倉秀夫弁護士はインターネット関係で著名な護士のようです。ご自身でもブログを開設されていますが、今日の夕方に訪したところ、これも気になるテーマのエントリがアップされていました。


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富山での人権擁護大会


http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/07/post_36ef.html


 今年の10月に富山で開かれる予定の日弁連人権擁護大会の第2分科会は安全で質の高い医療を実現するために  ──医療事故の防止と被害の救済あり方を考える──」というテーマなのですね。


 矢部先生が,矢部先生のブログの常連コメンテーターさんの意見を代弁しにってあげれば面白いのになあと,ちょっと思ってしまいました。


 なお,今年の9月末には,東京弁護士会の弁護士業務妨害対策特別委員会の足10周年を記念し,「弁護士が狙われる時代に!」というテーマでシンポウムが開かれるのだそうです。


もし,暴力団関係者から,執拗に脅迫を受けたら。


もし,人格障害の相手方から,執拗に面談を強要されたら。


もし,懲戒請求や紛議調停などを乱発されたら。


もし,インターネットに誹謗中傷の書き込みをされたら。


あなたは,冷静的確に対処できますか?


とのキャッチコピーが付けられています。


 後ろの2つは極めて現代的ですね。


07/07/2008 dans Loi | Lien permanent


 その一つ前のエントリも気になるもので、明示されていないものの露骨に示唆的です。これまでの経緯を考えると「元検弁護士のブログ」の可能性が高いのかもしれません。


////////////////////////<引用の開始>////////////////////////////////


応報感情の処置


http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/07/post_77bc.html


 医師の刑事責任について、遺族等の応報感情を無視ないし軽視した議論がコメント欄で延々と行われているブログにおいて、遺族等の応報感情を相当程度尊重しなければ正当化が難しい死刑制度について、これを積極的に評価しないコメントを事実上排斥する運用がなされているというのは、興味深いところです。


06/07/2008 | Lien permanent


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 富山弁護士会が気になったのは、以前、次のエントリをアップした経緯があるからです。


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[弁護士]冤罪を生んだ責任の99・9%は捜査機関に


http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20080401/1207060520


■[弁護士]冤罪を生んだ責任の99・9%は捜査機関に


富山・強姦冤罪事件:弁護人の責任言及せず 県弁護士会が報告書公表 /富山


http://mainichi.jp/area/toyama/news/20080329ddlk16040450000c.html


富山・強姦冤罪事件:弁護人の責任言及せず 県弁護士会が報告書公表 /富山


 県警による強姦冤罪(ごうかんえんざい)事件で、県弁護士会は28日、経緯の調査結果や再発防止策をまとめた報告書を公表した。当時の国選弁護人の責任には言及せず、記者会見を開いた今村元・会長は「冤罪を生んだ責任の99・9%は捜査機関にあり、弁護士の処分や注意は行わない」と述べた。


 報告書は、被害者の柳原浩さん(40)が、逮捕直後の当番弁護士の接見から国選弁護士選任までの約1カ月半の間に、強圧的な取り調べを受けて「自白」に至ったと指摘。「この空白が冤罪の一因」とし、当番弁護士の派遣回数を増やすことや、否認している際は弁護士の私選を勧めることなどを提言した。


 捜査機関に対しては、警察署内に容疑者を拘置する「代用監獄」の廃止や、取り調べの全面可視化を要求。弁護士にも「自身が自白偏重に陥っていないか、肝に銘じるべきだ」として、容疑者が自白に転じた際は慎重に事情を聞くよう求めた。


 県弁護士会は冤罪発覚直後の07年1月に調査委員会を設置。聴取内容の公開を巡って柳原さんと対立し、本人からは話を聞けなかった。【茶谷亮】


毎日新聞 2008年3月29日 地方版


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昨夜、今枝弁護士のブログで知りました。さっそく元検弁護士のブログで、この問題のことをコメントしたのですが、まったく無反応でスルーされていました。


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http://www.yabelab.net/blog/2008/03/31-140917.php


No.3 廣野秀樹さん | 2008年3月31日 20:20 | CID 131051  (Top)


 今枝弁護士が細かく取り上げていますが、とても参考になります。


富山氷見事件について弁護士会報告書


http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gl/imajin28490/view/20080331/1206928539


県警による強姦冤罪(ごうかんえんざい)事件で、県弁護士会は28日、経緯の調査結果や再発防止策をまとめた報告書を公表した。当時の国選弁護人の責任には言及せず、記者会見を開いた今村元・会長は「冤罪を生んだ責任の99・9%は捜査機関にあり、弁護士の処分や注意は行わない」と述べた。


 いくらなんでもそれはないだろうと感じました。安だ弁護団の一派が、特別な存在とばかり思っていましたが、こちらのほうがより問題性が高そうです。


 おまけに富山県はお隣なんです。以前は仕事でよく言っていました。なかなか特徴のある県民性でもありますが、これじゃ刑事弁護のみならず、北陸の恥さらしです。


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 エントリ名は弁護士会の裁判員制度対応状況ですが、私が水を差してしまったのか、盛り上がりに欠け、一日も立たないうちにお蔵入り状態みたいです。最後のコメントも


3月31日になったままです。(4月1日23時30分現在)


 想像以上に、脆弱な基盤の上に成り立った歪な世界なのかもしれません。


Permalink | コメント(1) | トラックバック(0) | 23:35 こ [120706] こ



 そういえば、山口貴士弁護士は、安田弁護士のお仲間みたいです。ネット上の情報でした。また、検察が控訴したネット上の名誉毀損無罪判決の裁判でもご活躍されたみたいで、これはネット上のnewsで見かけました。



 時刻は22時54分を過ぎたところであり、散文調の説明不足ですが、今回はこのあたりにしておきたいと思います。また、重要なことですが、私は具体的な事実の情報公開に先立って、理解を得ることを前提に、専門家である弁護士さんも含め情報発信を行ってきました。その最たる場所が「元検弁護士のブログ」でもあったわけです。


 その元検弁護士のブログですが、最近の談話室開設のエントリに、かねて抱いていたイメージを自ら自認されるような趣旨のことが書いてありました。「元検弁護士のつぶやき」というタイトルとは裏腹に、活発な議論や主張が行われているサイトです。


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談話室の開設のお知らせ


http://www.yabelab.net/blog/2008/07/06-161642.php


 MovableType の新バージョンの中に、いわゆるフォーラムに似たテンプレートセットがありましたので、それを利用して談話室を作ってみました。


 閲覧は自由ですが、書き込みには会員登録(サインアップ)が必要です。


 というか、そういう設定にしました(^^;


 サインアップにあたっては、メールアドレスの入力が必要です。


 登録時に入力されたアドレスに確認メールが送られますので、確認メールに記載されたURLをクリックして始めて登録が完了します。よくあるパターンです。


 メールアドレスの登録により皆様の責任ある発言を期待し て い る というわけではなく


 会員登録をするとアバターが使えるというシステム的な理由が最大の理由だったりしまして(^^;


 要するに、最近本館ブログのコメント欄に若干ぎすぎすした雰囲気が漂うことがあるように感じられますので、常連さんや常連さん予備軍による、仲良し倶楽部的サロンスペースという意味合いで作ってみました。


 というわけで、談話室は雰囲気重視で運営させていただきます。


 堅い話や重い話は原則だめです。


 雰囲気を乱す方に対しては管理権を強力に行使させていただきます。


 実は、そのための会員登録が真の理由だったりします(^^;


 趣旨に賛同してくださる方の登録をお待ちしています。


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 ぎすぎすした雰囲気が漂う、などとありますが、私が原因なのかもしれません。もっともその後も、私のブログのアクセス数はあまり伸びていないので、まるっきり相手にされていない可能性もあるわけですが、ログを前提にする限り、そう判断する他なく、より明確なのは、私が元検弁護士のブログを締め出されたいきさつ、内容です。


 「元検弁護士のブログ」につきましては、連載エントリも中断中で、当分の間、触れないかもしれません。それほど深刻な重大問題とも現在のところ捉えていないので、事実上の影響力以上に、強い関心も執着もないのです。一つの節目として確認と言質を頂けただけでも満足しています。














[[【秋葉原通り魔事件】暴発は脳の機能不全? 脚光浴びる脳科学 (1/2ページ)]]


* 告訴の事実


** 被疑事件を取り巻く状況及び経緯


*** 金沢市場輸送

 これまでも告発・告訴状において、繰り返しご説明してきたと思いますが、簡単におさらいをしておきます。私が初めて金沢市場輸送に入社したのは昭和59年の1月でした。当時の金沢市場輸送の事務所は、金沢市西念町の中央卸売市場の前にある2階建てのテナントビルの2階でした。


 当時は、長距離専門の運送会社で、トラックのほとんどが保冷車で、鮮魚や野菜を中心に冷凍食品などを主に関西、関東、新潟方面に運んでいました。4トン車と10トン車が半々ぐらいでしたが、若干4トン車の方が多かったと思います。平ボディというのは10トン車の2台だけで日通の仕事を主にやっていました。中央市場の仕事が中心のようでもありましたが、当時から雑貨など雑多な荷物を扱っていました。


 被告訴人大網健二は4月頃に、大網周一は6月ぐらいに私の紹介でそれぞれ入社し、大網健二は7月過ぎにはやめ、大網周一も10月に私がやめて、まもなく辞めたはずです。この二人が金沢市場輸送で働いていたことについて、私は別段意識することはありませんでした。いずれも短い間でもあったからです。


 むしろ私が注目し重視していたのは、中町和也という同郷の先輩が私が辞める時期に前後して同じく金沢市場輸送に入社し、こちらは1年から2年ほど比較的長い間勤めていたことです。同郷といいましても、私は能都町(現在能登町)宇出津で、中町さんは姫という地区でした。宇出津は宇出津小学校で、姫からのアクセスが数件目につきました。山口貴士という弁護士さんのブログですが、これは2006年10月のエントリのようです。私が送信したトラックバックは真脇小学校で、中学が同じ能都中学校でしたが、中町さんは私より4、5ほど年長であり、初めに知り合ったのも私が16歳の頃でした。大網周一を通じた付き合いが多かったのですが、ちょくちょく一緒に遊ぶ機会も多く、よくしる先輩の一人だったのです。少年時代から暴力団関係者との付き合いがあるとも聞いており、小木の遠洋漁船に乗ってきたとも聞いていました。 被告訴人浜口卓也も真脇の出身であり、大網周一と同じで私のひとつ年上の先輩でした。真脇と姫は隣り合っており、知らない人がみれば、区別のつかないような集落です。ちなみに私の同級生で真脇小学校の出身者は20数人ぐらいだったと思いますが、浜口卓也の年代はたぶんそれより少なかったと思います。 姫の隣が小木という遠洋漁船の港でしたが、当時こちらは珠洲郡内浦町でした。現在は、宇出津と同じ能登町になっています。


 小木という港は、遠洋漁船の基地のようになっていて、北海道方面を中心に、イカやサケマス漁を行っていて、当時の若者の多くは、その遠洋漁船に乗り組んだり、そのような経験のある者が多かったのです。これは金沢市場輸送とも無関係ではなく、金沢市場輸送の社員や働いたことがある者のには、そのような小木の遠洋漁船の関係者が多数含まれていました。また、そのような漁師の間の付き合いや、面識もありました。 当時地元では、そのような遠洋漁船の経験をしていない若者は一人前とはみなされないような傾向がありましたが、私はそのような漁師の経験をしておらず、大網兄弟もしていませんでしたが、漁師の連中との付き合いは頻繁にありました。いわば部外者でしたが、漁師の話はよく耳にしていてのです。生死をともにするような仕事でもあり、連帯感も強く、仲間意識も強かったようです。また、当時はその遠洋漁業の大きな曲り角でもあり、二百海里問題などで、大きく衰退に向かうところでもあったのです。次第に漁師をする若者は少なくなり、金沢に出て仕事をし、生活をするのが一般的になりました。儲からなくなった、漁師だけではやってゆけなくなったというのが、理由のようです。なかには、夜逃げや自殺者も続出しているという話を聞きましたが、漁業の衰退は、漁師のみにとどまらず、大工など地域の経済そのものに大きな打撃をあたえ、人の流出にもつながったと聞いています。 そんなこともあって、金沢市場輸送には漁師経験者が人づてや紹介で、少なからず集まったようです。地元での仕事というのは当時から少なかったはずです。


 私の中学校の同級生も204人ほどいましたが、地元で就職したのはごく少数だと聞いています。 当時、金沢市場輸送の事務所は二つの部屋に分かれていて、手前の部屋には入口の方にテーブルが置かれ、それが運転手の休憩室のようにもなっていたのですが、奥の半分に事務用の机が5、6ほど固まって並べられていました。奥行きが5、6メートルぐらいでしょうか、そんな小さな事務所で、隣には同じ間取りの部屋が、奥半分でアコーディオンカーテンでしきられ、その部屋のすべてが社長室になっていました。駐車場自体が、会社から6、7百メートルぐらい離れた場所にあり、なにかと不便でもあったのですが、後にその駐車場があった場所のあたりに、新社屋が出来、そちらに全面移転しました。昭和63年の7月頃だったと思います。


 当時運転手の中で最古参であったのが、本恒夫でした。最古参といっても入社8年目と聞いていました。当時の金沢市場輸送の給料体系では、一年ごとに基本給が1万円ずつあがるという話で、基本給は10万円ではなかったかと思います。給料が多すぎるので会社が持て余しているとも聞いていました。基本給に歩合がついていましたが、10トン車の場合荷物を積んで走行した距離で、キロあたり20円の歩合でした。このシステムは、平成2年の春頃まで続いたはずです。実際にはこれでは給料が少なすぎるので、休日出勤というかたちで、やっていましたが、かなりあいまいでわかりにくい給料計算でした。


 それまで配車係は北浜太一という人と、藤村という人がやっていました。私は、昭和59年の1月に初めて入社してから、その年の10月に免許停止になったこともあり辞めたのですが、昭和61年の8月にもう一度入社しました。その昭和61年の12月か昭和62年の1月に、藤村さんが長期の入院をすることになり、本恒夫が配車をするようになったのです。また、ちょうどその頃に事務員として入社したのが、被告訴人の一人、池田宏美でした。同じく被告訴人である梅野博之が入社したのも、これに前後した時期であったと思います。 


 2度目に入社した昭和61年当時、金沢市場輸送は従来の長距離の仕事とはに、2トン車を中心にした市内配達の仕事が軌道に乗り、本格的な業務の一となっていました。それまでもちらほらとは金沢市場輸送の噂を耳にしていのですが、私が昭和59年の10月に辞めて、しばらくした頃から市内配達の事を他の数社の運送会社と共同で始めるようになったと聞いていました。こが市場急配センターの前身なのですが、その初めの頃に、しばらく仕事をしいたと聞いたのが、これも被告訴人の安田敏でした。


 昭和60年の8月の終わりぐらいだったように思いますが、当時乗務してい中西運輸商の9200の4 トン車で、金沢市場輸送の事務所の前に行き、声かけて安田敏の所在を尋ねたことがあり、先日辞めて岐阜に出稼ぎにいった言われたことを覚えています。9200というのはトラックの箱の長さが9ートル20センチあるという意味で、全長も10トン車とほとんど変わらないきさの4トン車でした。 私は初めに金沢市場輸送を辞めたあと、昭和60年の月から昭和61年の2月一杯、中西運輸商で4トン車の長距離の仕事をしていした。正式には中西運輸商というのは配車だけの会社であり、自社便である転手は中西水産輸送有限会社だと聞いていました。この中西水産輸送においも3月ぐらいに大網健二が私の紹介で入社したのですが、金沢市場輸送と同く2、3ヶ月で辞めました。


 この中西水産輸送にいる間に、私は前妻と知合い、中西水産輸送を辞めた直の3月の10日頃には、加賀市片山津温泉で結婚式を挙げていました。中西産輸送を辞めたのも免停が理由で、たしか150日と90日ぐらいの免停がブルで来ていたのです。 そして、6月過ぎの免停が明けた直後に、安田敏誘われて岐阜に行き、岐阜から戻った8月20日頃に再度金沢市場輸送に入したのです。長男は岐阜に向かう少し前に誕生していました。免許の点数をすのと、大型免許を取得するため、金沢市場輸送では長距離ではなく、市内達の仕事をしていました。そして、確か22歳の誕生日の翌日である11月7日に大型免許を取得しました。


 大型免許を取ってからは、市内配達の仕事はほとんどしなくなり、10トン平ボディに乗って、ミール(鰯を主な原料にした魚粉)の配送をしたり、名屋方面にも運んでいました。10トン車に憧れ、念願かなって大型免許を取得たものの、当時10トンの保冷車に空きがなく、中西水産輸送で配車係をしてた吉村哲に誘われて、昭和62年の1月の20日ぐらいに、金沢市場輸送をめ、中西水産輸送に戻り、大型車に乗務しました。しかし、子供も小さかっのに、中西水産輸送では25日間も家に戻れないことがあり、佐川急便の雑ではなく、保冷車で鮮魚を運びたいとも考えていたところ、ある日の夜、東のアパートまで本恒夫が訪ねてきて、10トンの保冷車を増車するので、金沢場輸送に戻ってほしいと誘われたのです。


 それで、3月の20日ぐらいに中西水産輸送を辞め、金沢市場輸送に戻りまし。これが3回目の入社ということになりそうです。 その後、吉村哲は私の介で金沢市場輸送の配車係をするようになったのですが、自分の方から持ちけてきたあたりなど、のちの安田敏の入社によく似ていました。また、吉村の父親は、松浦や堂野と一緒にダンプで鰯の運搬をしていたこともありまし。私自身、父親の姿をはっきり見たことはなかったのですが、一度北陸ハイールの重量測定場にいる姿を、ゆっくり走行中のトラックの車内から見たこがあり、これは平成4年の初め頃のことと考えられます。なぜなら、平成3以前の同時期であれば、私は金沢市場輸送にいたから、頻繁に顔をあわせてたはずだからです。






*** 金沢港における鰯の運搬について

 この鰯の運搬の仕事については、今一度詳しく書いておく必要を感じておりす。というのも、現在私は、堂野という人物と事件とのかかわりを、事件の相の解明には不可欠な重要要素ととらえているからです。


 これも一昨年になってしまいましたが、2006年の10月に金沢中警察署行ったとき、山出警部補が、私のホームページについて、「松平社長や堂野、どうこうしたってことを書いていることは、よく知っている」というよう言い方をしていました。これもひとつのきっかけにはなったと思いますが、めて事件への関与を意識するようになりました。とはいっても、もともと堂という人物は、被告訴人ら関係者とのつながりや接点が多数存在する人物でり、さらに平成10年の11月の会見における態度は、明らかに事情を知悉るものの振舞でした。


 まず、金沢市場輸送における鰯の仕事ですが、始まったのは昭和60年の初頃ではないかと推定されます。当時私は、中西水産輸送で4トン車に乗務しいましたが、中西運輸商の仕事のメインは佐川急便の広島・九州便であり、インとなる荷積先も佐川急便金沢支店で、金沢市郊外の木越というところにりました。金沢東インターの近くでもありますが、その金沢東インターの側トラックステーションが出来たのもだいたい同じ頃だったと思います。


 トラックステーションは国道8号線に面していますが、横道から河北郡宇ノ(現在かほく市)につながる主要道があり、たしか農免道路と呼ばれていたうな気がします。トラックステーションから車で5分ぐらいでしょうか、ありはほとんどが田んぼの平野の金沢市の突端に「浜田漁業金沢工場」がありした。浜田漁業は、珠洲市蛸島町にある水産会社で、私自身、同じ能登であことから知っていた会社で、その能登の会社が金沢に工場を建設したというとで、それなりに注目はしていたのです。そのうち、農免道路を走行中に金市場輸送のトラックとすれ違うようになり、金沢市場輸送が浜田漁業の仕事しているとも知りました。金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めたのと、だたい同じような時期だったと思います。


 当初の金沢市場輸送の仕事というのは、ミールを運ぶことでした。ミールはを原料に加工した魚粉であり、完成した商品を、主に名古屋方面に運び、そ以上に多かったのが、倉庫移動でした。 これは、平成4年当時においても、場急配センターの主力な仕事になっていて、私もよくやっていました。私自がそのミールの仕事に最初にかかわったのは昭和61年の終わり頃のことで、時は松任市のはずれにある日通の倉庫ぐらいでしたが、平成4年当時には、庫の数も増え、清水倉庫、五高倉庫など5つぐらいあったと思います。もっもそれは北陸ハイミールをあわせての数でした。


 この鰯の仕事というのは時期が決まっていて、12月の初め頃から4月一杯らいだったようです。といっても12月や4月は捕れる量も極端に少なく、格的に忙しかったのは1、2月だけだったと思います。現在は鰯自体が捕れくなり、ずいぶん高価な魚になってしまったとも聞いたことがありますが、時は肥料にするほど大量に捕れる魚でした。


 金沢市場輸送がミールの運搬だけでなく、原料である鰯の運搬をするようにったのは、昭和62年の春頃からだったと思います。もうシーズンの終わりったので、本格的に着手したのはその年の11月か12月からでしょう。中運輸商から金沢市場輸送に戻った私は、まもなくイスズの新車の10トン保車に乗務しました。竹沢俊寿の鶴の一声があったらしく、いきなり新車に乗したのです。その新車が来る1、2週間ほど前だったと思いますが、同じくスズの新車で鰯運搬専用の10トンダンプが納入されていました。


 そのダンプが導入されるしばらく前から、会社でちらほら顔を見るようになっていたのが松浦で、連れにもう一人松浦と同世代の人がいましたが、その二人がその鰯専用のダンプに乗務したのです。 もう一人の人の名前をはっきり思い出せませんが、静かで控えめでありながら、松浦と似たような雰囲気で、似たような経歴の持ち主という感じでした。個人的なダンプの運転手という感じでしたが、さらに松浦の場合は、暴れん坊タイプのヤクザ者とでもいいましょうか。昔かたぎのヤクザの典型的な一パターンのようでもありました。表現するのも難しいのですが。


 もともと金沢というところは、人口のわりにヤクザの数が多かったと思います。加賀温泉や和倉温泉のような収入源を背景にしていたこともあると思いますが、実際に週刊誌でそのような記事を読んだことがあり、山口組の収入源のかなりの割合を占めていると書いてありました。もっともバブルが崩壊してから、温泉の方もすっかり衰退したようですが。そして、平成に入ってからだったと思いますが、暴対法という法律が施行されてから、一見してヤクザ者とわかるような人の姿を見かけることもほとんどなくなりました。


 私自身、少年時代にヤクザ関係者との付き合いも多少ありましたが、それ以上にみじかな存在でもあったのです。例えば、交通事故に遭ったとき、組関係の名前を出して交渉を有利に進めるというのもごく普通のことであったと思いますし、警察においても民事不介入という原則が、徹底されていたようです。現在では民事不介入という言葉すら、聞かなくなりましたが。 また、社内の噂話で、竹沢俊寿が昔ヤクザの組長をやっていたとき、松浦が子分で入ったがすぐにいなくなったとも聞きました。


 竹沢俊寿というのもヤクザの雰囲気を持ち、極道という言葉も好んで使っていましたが、人を威嚇するような強面のタイプではありませんでした。そればかりでなく、運転手をおちょくったような態度で、運転手の方からもずいぶんとバカにされ、まともに相手にされないような存在でもあったのです。金沢市場輸送という会社自体も、経営自体がかなり厳しい状態だったらしく、仕事の内容というのも他の運送会社のおこぼれを拾い集めるような貧乏会社だったのです。


 ちょうど私が大型車に乗務した昭和62年の頃からでしょうか、社会全体が好景気な時代へと移り変わり、金沢市場輸送の会社の雰囲気も変わっていきました。世に言うバブル景気という時代への突入であったと思われます。同時に本恒夫が配車係になったことで、積極果敢に仕事を集めるようになりました。以前配車係をしていた藤村さんは、のんびりしたような性格でもあり、競争心も乏しかったようですが、本恒夫は40歳ぐらいになってから初めて金沢市場輸送で給料をもらう仕事に就いたと豪語するぐらいで、自意識も強いやり手だったようです。仕事ぶりも性格もいわば「お山の大将」のようなところがあり、それなりに運転手から顰蹙もかい、小馬鹿にもされていたようですが、割りと融通の利く対応で運転手の要望や期待にもそれなりに応えていたのではと推測されます。また、その割を食わされていたのも私だと思いますが、私の方も割り切っていて、些細なことには気にとめずにいました。


 鰯の仕事の話に戻します。もう20年ほど前のことでもあり、覚えていることも断片的ですが、記憶と事実を整理しておくとい目的も兼ねています。私自身、鰯の運搬の仕事を2回やりました。初めにやったのは、昭和63年の12月から翌平成元年3月頃までのシーズンです。あるいは2月一杯ぐらいで、3月になると鰯の仕事はほとんどやらなくなっていたかもしれません。ピークの2月を過ぎると鰯の漁獲量は激減し、ダンプ以外が出動する機会はほとんどなくなっていたからです。


 この時2台のダンプに乗務していたのは、松浦と大西真でした。このシーズンにあわせて、竹沢俊寿は5台の平ボディの10トン車を新車で導入し、それの荷台に特別に設えた水槽を乗せていました。私が乗務したのもこのタイプでした。水槽の方も和歌山県の南紀白浜、田辺市にある会社に発注し、直に水槽を乗せたトラックを取に行ったこともありました。


 そういえば、ダンペというのもありました。ダンペというのは、10トンの平ボディ車に10個か12個ぐらいのるように小分けされた水槽で、それに鰯を満タンにして、養殖ハマチの餌として運んでいました。ひとつひとつのダンペは、人間が入る浴槽ぐらいの大きさで、なかの鰯もあまり痛まなかったのです。新たに導入された水槽は、そのような仕切りなどなく荷台全部がまるごと水槽のようになっていたので、下の方は重みでつぶれていました。鰯の鮮度によってもかなり違いがありましたが。また、鮮度の悪いつぶれた鰯の方がより多くの重量を積むこともできました。当時は面白がって沢山積んだりしていましたが、平ボディでは最高で33トンぐらいでした。松浦らが乗っていたダンプの方がそれより若干沢山の量を積めましたが、平均して沢山積めていたようです。平ボディに33トン積むときは、小山のように盛り上げて積み、道路にもけっこうこぼしていました。明らかな重量オーバーであり、定量の3、4倍でしたが、当時は、そんな仕事も普通にやれていた時代でした。警察が黙認しているのかどうかわかりませんでしたが、私などは常々不思議に感じていたことです。


 当時のこととして印象的に覚えているのは、年号が平成に変わったことです。昨年の暮れにもテレビ番組でやっていましたが、昭和64年の1月7日に年号が昭和から平成に変わりました。その当日だったと思いますが、私は大西真と二人で、茨城県水戸市内のデパートにいました。急な指示で、展示会の荷物を運んでいたのです。このシーズンは、鰯の漁獲量もそう多くなく、従事するトラックの数も多くありませんでした。暇な時間が多く、よく大西真と二人で遊んでいましたが、大西真は実に気前がよく、食事代の全てをおごってくれていました。


 大西真は、本恒夫が47歳ぐらいのとき、50歳であったと思います。歳の割には気も若く、元気でした。昭和59年当時にも金沢市場輸送で大型車に乗務していたので、大網健二も彼のことは知っているはずです。彼には息子がいて、昭和61年の秋ぐらいから金沢市場輸送で主に市内配達の仕事をするようになり、その後、出入りを繰り返したあと、市場急配センターでも仕事をしていたようですが、松平日出男と折り合いが悪く、持て余した松平日出男が首にしたようなことを聞きました。けっこうもめてもいたようです。 折り合いが悪いといえば、本恒夫と松平日出男もそうでしたが、表立って諍いをするような姿を見かけたことはなく、水面下で火花を散らしているようにも見えた程度です。けっこう憶測ではやしたてるような社員というか運転手もいたようですが、実際のところはよくわかりませんでした。


**** 平成元年12月から翌平成2年4月頃までの状況




















*** 2008年1月2日現在における市場急配センターの状況月2日の12時を過ぎたところですが、久しぶりに市場急配センターのホームジにアクセスしてみました。アクセスカウンターの数字は3699となっておほとんど伸びておらず、事件に対する関心の低さが浮き彫りになっていまもっとも事件だといって告訴などしているのは私一人なので、現時点ではとも言えないのかもしれません。


 WindowsXPのブラウザでホームページを閲覧し、URLアドレスやの一部をコピーし、それをメールで送信しました。そしてこの書面を作成あるLinuxのノートパソコンのブラウザで、メールを開き、コピペし。ブラウザのめーるとしてGmailを使っています。

@<pre>

《引用コピー》

《引用コピー》 http://www.kyuhai.jp/

《引用コピー》

《引用コピー》 http://www.kyuhai.jp/kaisha/index.html

《引用コピー》 会社名 市場急配センター株式会社

《引用コピー》 住 所 金沢市駅西本町4丁目2番12号

《引用コピー》 TEL 076-260-4050

《引用コピー》 FAX 076-265-7555

《引用コピー》 代表取締役 堂野 俊一

《引用コピー》 設立年月日 昭和62年5月20日

《引用コピー》 資本金 2,000万円

《引用コピー》 事業種目 ・一般貨物自動車運送事業 ・自動車運送取扱事業 

《引用コピー》 ・自動車運送代弁業 ・自動車運送利用業

《引用コピー》 取引銀行 北國銀行 中央市場支店

《引用コピー》 金沢信用金庫 駅西支店

《引用コピー》 北陸銀行 金沢中央支店

《引用コピー》 従業員数 100名(女性3名)

《引用コピー》 車 輌 2t車 37台

《引用コピー》 4t車 48台

《引用コピー》 10t車 3台

《引用コピー》 保険関係 社会保険制度・労災制度・任意保険(全車加入)

《引用コピー》 ●車輌・対物・対人・搭乗者・貨物(運送)

《引用コピー》 加入先:三井住友海上火災保険(株)

《引用コピー》 (代理店→(株)スター保険サービス)

《引用コピー》 日本興亜損害保険

《引用コピー》

《引用コピー》 http://www.kyuhai.jp/gyomu/index.html

《引用コピー》 【沿 革】

《引用コピー》 昭和62年5月 金沢市二口町にて設立

《引用コピー》 昭和62年8月 自動車運送取扱業・自動車運送代弁業・自動車運送利用業・取扱開始

《引用コピー》 登録番号 第1850号

《引用コピー》 平成3年2月 一般貨物自動車運送事業

《引用コピー》 中運自家第二117号

《引用コピー》 平成11年9月 金沢市西部地区中学校給食配送委託業務開始

《引用コピー》 平成14年7月 市場急配センター(株)物流倉庫創業開始

《引用コピー》 地場・地方発送倉庫として300坪の倉庫設立

《引用コピー》 平成15年9月 金沢市北部地区中学校給食配送委託業務開始

《引用コピー》 平成15年9月 金沢市中央地区小学校給食配送委託業務開始

《引用コピー》 平成16年7月 ISO9001:2000取得

《引用コピー》 平成18年9月 河北郡内灘町学校給食配送委託業務開始

《引用コピー》

@</pre>


 なぜWindowsパソコンを使ったかというと、ログにLinuxからのクセスだという記録が残るからです。ご覧のように代表取締役が、松平日出から堂野に変わっていますが、私はこれをだいたい半年ぐらい前に確認しまた。もっとも市場急配センターのホームページにアクセスすることは滅多にく、去年一年間でもほんの数回程度でした。


 あと、これも年がかわって昨年になりますが、金沢に買いものに行ったとき場急配センターの状況を見に行くと、事務所の近くに新たなトラック駐車場増設されていました。たぶん、11月25日のことです。事務所自体は、設立当からほとんど変わりがなく、傍目からも老朽化しつつありますが、近隣にトックの駐車場を増やしながら、所有するトラックの台数も大幅に増やしていようです。堅実な経営とも見えますが、それ以前から、市場急配センターの社の雰囲気というのは、平成3、4年当時とは一変しています。これまでに何も会社の前を車で通りかかっていますが、会社の近くで雑談をする運転手のを見かけたことも一度もなく、機械的とも思えるような徹底したスケジュー管理が行われているかのようです。 中央市場の仕事は、鮮魚と青果に大別きますが、青果部門においては、完全制覇を成し遂げ、長期の安定期を続け、らに成長しつつあると言ってよいでしょう。


 従業員数や車両台数を見る限り、さほど大きな会社には思えないかもしれまんが、金沢市という規模と業務の特殊性を前提にすれば、これは事実上の独状態といっても過言ではなさそうです。参考までに、金沢市の人口は数年前2万人程度だったと思いますが、近年は増加傾向にあると聞いたことがあり、く見積もって45万人程度だと思います。石川県全体においても、数年前は17万人でした。金沢市というのは全国的にも割りと知名度が高い方だと思いまが、たぶん大方の予想よりははるかに小さな小都市ではないかと思えます。光都市であるうえ、戦時の空襲爆撃の被害も受けておらず、市内には狭い路もそのまま残っており、道路幅も全体的に狭く交通の便もあまりよくなかっのですが、近年では県庁も郊外に移転し、山側環状のような道路も出来て、いぶん変わったという実感があるのですが、他県との比較が出来ないので、んなものかよくわかりません。


 ただ、北陸三県の中心であることは変わりがなさそうです。裁判所において名古屋高等裁判所金沢支部がおかれていますが、市場の仕事においても中心という印象はありました。しかし、市場そのものの規模では、富山市の方がきいような気もしました。冨山は戦時の空襲爆撃を受けていますが、復興の程で道幅も大きく整備されており、また、石川県とは比較にならないほど大な工業都市でもあります。金沢市場輸送でも行き荷の大半は、富山県内からした。




my t     hideki         hirono hideki


 [[http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/][description]]   or alternatively    [[http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/]]


    * 一旦リンクがバッファー上で完成すると(すべての括



* 参考資料

** 2008年7月8日分

*** <<【秋葉原通り魔事件】暴発は脳の機能不全? 脚光浴びる脳科学 (1/2ページ)>>

http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080708/crm0807082159046-n1.htm


2008.7.8 21:55

このニュースのトピックス:ネット犯罪


 8日で発生から1カ月となった東京・秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大(ともひろ)容疑者(25)ら若者の暴走による凶悪犯罪は、大きな社会不安となっている。加藤容疑者の場合、携帯サイトの書き込みに熱中しており、識者は「脳の機能不全が影響しているのではないか」と指摘する。相次ぐ凶悪犯罪に、文部科学省も年度内に設置する徳育に関する有識者会議で「脳科学」との関連性を検討していく考え。今後、脳科学研究が本格的に脚光を浴びそうだ。


 加藤容疑者の携帯サイトの掲示板への書き込みは3000件超。職場や親への不満、職場でのトラブルなどの「心の闇」がにじみ出ていた。馬居政幸静岡大教授(教育社会学)は「この世代は少子化が進んで多様な人間関係がなく、コミュニケーション能力がない。対人型のカウンセラーには行きづらいので、気軽悩みを相談できる携帯サイトの拡充が必要だ」と話す。


 『ゲーム脳の恐』の著書がある森昭雄日本大教授は「人を殺すことの善悪がつかないのは記、感情などを司る前頭前野が機能障害を起こしているからではないか。同種事件は今後増えるだろう」と懸念。「茨城県土浦市の8人殺傷事件の容疑者ゲーム中毒だった。格闘ゲームをはじめとしたゲームは反射神経で反応するだけで、思考能力が働かなくなる。凶悪犯罪を起こした容疑者の脳の状態を科学的に分析する必要がある」と指摘する。

*** <<【刑事事件】「ネット世界で無視した人を見返すため」容疑者が供述>>

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080708#1215448536


 秋葉原通り魔殺人事件の容疑者ですが、このような心理状態を「異常」と片付けるのは簡単ではあるものの、ネットにはまりすぎることの危険性、ということを示しているような気がします。私自身、ネットを見ている時間が結構長いほうではありますが、リアルな場でのコミュニケーションの機会もそれなりにあって、バランスは取れているほうではないかと思っています。しかし、そういったバランスが崩れ、ネットに過度に依存し、ということになれば、知らず知らず、危険な領域に踏み込んでまう、ということも起き得るでしょう。


この種の問題は、今後、増えることはあっても減ることはないはずで、ネットユーザーのメンタルヘルス、ということは、今後、ますます重要性が増して行くように思います。


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